渤海使

平城京から、近江、北陸の道を抜け、さらに日本海を波涛を超えて朝鮮半島の北部にいたるは、渤海使のたどった道だ。日本から渡航するときは、春から夏の季節風を利用し、渤海から日本へ渡航するときは冬の季節風を利用して帆走したらしい。(cf.日本渤海交渉史 上田 雄、孫 栄健 著 彩流社 )

続日本紀を読むと、たまに渤海、新羅の話が出てくる。

例えば、774年3月、新羅が筑紫へ来着、「昔からのよしみで、つねに相互に聘門しあいたい」というと、「これは朝貢の礼をとる国の関係ではない。」また、「貢ぎ物でなく、贈り物としたい」と言ってくると、はなはだ礼儀がないと追い返している。

また、771年6月、能代に「壹万福」等 計350人ばかりが来着の場合、上表文が驕慢、無礼だと、修正させている。例えば「天孫」という僭越な称号を連ねていると非難している。さらに、773年6月、先の大使、壹満福が帰ってこないので、彼の消息を尋ねてきた「鳥須弗」が能登に来着した。これに対しても上表文が無礼であると、追い返している。

上表文を修正したことで、本国に帰れば罰せられるは必死、壹満福はどこかへ逃亡したか、日本海の荒波に消えたか。