十一面観音信仰

十一面観音信仰はいつから始まったのだろうか。

今まで、「お水取り」といえば春を呼ぶ風物詩の一つぐらいしか認識が無かったが、それは十一面観音信仰の始まりだ。
東大寺の修二会 (お水取り)を始めたのは実忠和尚で、天平勝宝4年(752年)の創始から今日まで連綿として伝えられている。

東大寺二月堂修二会 お水取り  

二月二十日から三月十五日まで、約一ヶ月にわたる東大寺最大の年中行事。
この行法では、私たちが犯してきた、もろもろの罪を、みほとけの前で一心に懺悔しその功徳に依ってすべての人たちが幸せになることを祈念する。東大寺の修二会は天平勝宝四年(752年)に始められて以来、一度も断絶したことが無い。」

奈良にお住まいのT氏からのE-mailによりますと
「お水取りこと十一面悔過法要の開祖実忠和尚が難波津でとりあげて安置して以来、寺僧さえ見られない絶対の秘仏であること からも、とてもミステリアスで心を惹かれております。そして、悔過で読経されるうちで最も中心になるのは、六時の行法中の十一面神呪心経であり、練行衆は「**南無左辺三面瞋怒、南無右辺三面白牙**」と唱和している---」と紹介されています。

 ---------------------------------cf.杉山二郎 著 「天平のペルシャ人」 青土社1.「元享釈書」 の実忠伝 ---摂津の難波津で、波に浮かんでいる閼伽器(あかき)の中に十一面観音像を見つけた。それは金剛像で全長が七寸(約22cm)で人肌のように温もりがあったそうな。 この十一面観音は東大寺の羂索院に安置され、実忠は毎年二月一日から二十七日間、この像に対して兎卒の法要を行った。

東大寺二月堂の下に、若狭井という閼伽水を汲む小さなお堂があります。奈良二月堂の井戸と若狭神宮寺前の音無川が、水脈としてつながっているなんて不思議な伝説ですね。旱で井戸が枯れた時、二月法を修する閼伽水の為、はるか若狭の方を向って祈ると、しばらくして、閼伽井の水が満ち溢れたそうな。それがちょうど二月十二日の夜という訳だ。現在では、お水取りの行法は3月13日の午前2時頃、若狭井から香水を汲む儀式が行われる。すなわち、満願の日に、枯れていた井戸から、にわかに閼伽水が湧いてくるというストーリだ。

2.興味を引くのは、実忠の正体はペルシャ人、いやインド人だと諸説を紹介されている所だ。十一面観音の追跡は、やはり国際的にならざるを得ない。東大寺大仏 開眼供養導師を勤めたのもインド人の婆羅門僧正だし。七世紀後半、倭から日本という国になった時、フロンティア精神旺盛な若者が新世界を求めて多数渡来してきたのだろう。

--------------------------------東大寺の修二会「お水取り」に対する神事が、若狭神宮寺の「お水送り」である。神宮寺 とはどこにあるのか地図を見てみよう。最近は地図ソフトもあり、こういう時は結構 重宝する。

cf.参考書---十一面観音の旅 丸山 尚一著 新潮社

今津から若狭街道を辿る。水坂峠を越えて北川沿いに小浜へ向うと、左手、若狭修験の山、多田ヶ岳手前の遠敷(おにゅう)川沿いに「神宮寺」がある。また、多田ヶ岳の北麓に多田寺と妙楽寺、芳賀の集落には芳賀寺があり、十一面観音と関係が深い所だ。

芳賀寺 桧の一木 極彩色 平安初期 像高-146cm
多田寺 榧の一木造り 像高さ 154.8cm
妙楽寺 三面千手観音 平安期 像高 176.3cm

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