最澄

短期留学生

804年7月 遣唐使とて出発---この時期から、最澄は桓武天皇の寵僧--38歳

804年9月 明州 ニンポー到着 --天台山巡礼が主目的、密教も学ぶが、、、

805年5月 在唐 八ヶ月半で、中国を離れる。

806年5月 天台宗 公認---桓武天皇が関心を示したのは、密教の方。

文献理解---天台と密教の間に優劣はない、仏教を学問する ---南都仏教と同じ立場であるが故に、南都仏教からの分離を悲願とした。

812年11月 高雄山 --空海との立場 逆転

822年6月、最澄の没した一週間後に大乗戒壇院建立が許された。現世に執着、最澄 56歳で没。

823年2月 延暦寺 寺号--学問を重視し、円仁他、人材多数。平安から鎌倉にかけて、新仏教出る。

空海

当初は無名の僧--留学生---31歳

804年8月福州 隻赤岸鎮へ到着--空海の目的は密教を学ぶこと。奈良時代から密教の智識は断片的ながら、日本へ伝わっていた。

当時、中国では密教の全盛期。--インド伝来の密教を学ぶ。

806年末 中国を離れる。20年計画をたった2年で帰る。

密教を最上位、仏教を実践の場、--南都仏教を認めた上で、密教世界を構築。

---加持祈祷に終始---人材続かず。

812年11月 高雄山 --空海の名声高まる。

816年7月 高野山を真言密教の修行の地として嵯峨天皇より賜る

823年1月 東寺 密教道場---教王護国寺

835年3月 人間の世に決別、空海 没 62歳---

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cf.日本の歴史(5) 平安遷都 瀧浪 貞子 集英社