考察
加耶古代史観から推測
4世紀前半以前
親子関係の中で、記紀の記述は大分、おかしく、真実と虚構を区別しなければならない。。
狗邪系 卑弥呼集団 南加羅) 崇神(144-211)
加羅系 加耶(加羅) 垂仁(212--312)
任那加耶 仁徳(313--399)
4世紀後半から5世紀以降、
半島の「加羅加耶、新羅、コムナリ加耶」 本格的移住が開始
加羅加耶(半島から渡来) 履中(400--405)、 反正(406--411)
新羅渡来 印尭、安康 (412--453)
コムナリ加耶 応神(390--430) 実在? 半島コムナリから移住
雄略(457--479)
前方後円墳は倭国最強時の遺産
4世紀前半から半島南部との関わりが出てくる。 半島では、加羅加耶が強くなり、4世紀後半には、コムナリ加耶とも同盟、新羅を攻勢する頃。 前方後円墳が盛んになるのは、4世紀末から5世紀初め以降、応神以降である。すなわち、任那加耶にあわせて、半島からコムナリ、加羅、新羅と半島からの勢力が大移動する時期である。前方後円墳は倭国が半島南部から倭まで支配した時、倭国最強時の遺産である。
倭に先住していたのは
(1)「任那加耶(高麗系)」で「仁徳」に代表される集団 。場所は上町台地から百舌鳥野方面
(2) ヤマトには、東南部や北西部に、
渡来してきた卑弥呼集団− 鮮卑系
在地の土着勢力---------南方呉系
一方、朝鮮半島から「応神大移動」でやってきた集団には、コムナリ加耶、加羅加耶、新羅等がある。
彼らはどこあたりに生活していったか?
(1)加羅加耶--物部 河内北部から藤井寺周辺
(2)コムナリ加耶--応神、雄略 古市、羽曳野周辺
(3)新羅 允恭、安康 ヤマト西の京
4世紀後半から5世紀初めは倭国が強大になって、新羅や百済から人質を獲る。 それにしたがって、半島の「加羅加耶、新羅、コムナリ加耶」から本格的移住が開始する。
5世紀前半は大移動の時期で、特に河内に移住し、この動きの象徴が「応神」である。 この大移動は高句麗南進のため、錦江流域にいた「コムナリ加耶)は、さらに南へ逃げる。 4世紀末には高句麗は百済を攻め、漢江以北を奪っている。
前方後円墳の謎 方と円の合体
この頃、倭国の領域が急に拡大、倭国は半島南部から倭までの領土最大の時、この時期と大型の前方後円墳が造作される時期と合うのは興味深い。やはり、最強の時代を歴史に残すためであろう。
高句麗系のお墓をみると、角。 石をピラミッド状に積み上げる。ところが、 百済、新羅になると「円墳」が多い。 日本でなぜ、前方後円墳か?やはり、加耶に象徴されるように南北融の結果、加耶ができたし、加耶が回帰して列島へと移動してきた。
北方で言えば「粛慎」、南方では「呉」 これの南北融合が前方後円墳では?
任那加耶=粛慎+南方呉
コムナリ加耶=漢+粛慎+南方呉+
加羅=鮮卑+漢+粛慎
コムナリ加耶〔雄略) 倭国最強
5世紀半ばまでは、従来の任那加耶と外来の「加羅加耶、新羅、コムナリ加耶」は勢力対峙。 記紀では「加羅加耶」や「新羅」系が天皇となっているが、倭先住加耶は和泉で、外来系は河内で住み分けていた。
この均衡を破ったのが、「コムナリ加耶」である。 コムナリ加耶からは5世紀初めから移住しているが、特に強くなった時、5世紀半ば、雄略天皇である。 当時、新羅勢力は仁徳系加耶大草香皇子を殺害、任那加耶系仁徳朝は途切れる。 それに対抗して雄略(コムナリ加耶)は、新羅勢力を打破、また加羅加耶系をも殺害。
結果 5世紀半ば、「コムナリ加耶」が主導権を握る。
5世紀半ば以降は、和泉は勢力低下、河内が主導権を握る。一方、一時避難した「加羅加耶」系は、次の機会を狙う。 加羅と新羅は同盟して、河内の雄略系と大和の平群を討伐、コムナリ加耶を殲滅する。 倭国の実権を握った加羅加耶系は「物部」に繋がる。 コムナリ加耶の政権は50年ばかりで終る。