卑弥呼のいた邪馬台国が筑紫だとしても、、。卑弥呼なきあとこの邪馬台国はどうなtったか?
結末だけは日本書紀にも書いてある。 筑紫君磐井の乱で終焉を迎えるからだ。
筑紫の君は変節もなく続く。
ヤマト入りした狗邪系集団はヤマト東南部に「崇神朝」を開く。ヤマト東南部はもともと不毛の地、大陸からの集団の入れる隙間はそこぐらいかな?
半島の狗邪系は不余が混じり「加羅」に変節する。この加羅はいわゆる「物部連」となって早々と北河内に移住。 加羅系は次の垂仁朝である。この加羅は継体時、物部アラカヒが磐井君狗邪系を殲滅することになる。
ヤマト東南部の狗邪系はそのご?
ヤマト東南部には「蘇我」、「舒明」、「天武」と高麗、百済、新羅からの移住。
ヤマト東南部の古墳はミワ君関連。 時代は3世紀後半から4世紀前半??
(1)
邪馬台国は「三輪、甘木、朝倉」と続く山麓にあったとするが、この東行ルートの終点ヤマトにも、同様の「三輪」、「大和朝倉」という地名がある。 両者とも山麓にあって、東は山で、西に開けている地理状況も似ている。
(2)
邪馬台系加耶は倭に移住後は、「君」と呼ばれる
「筑紫君磐井、鴨君、三輪君
卑弥呼が死んだあとは?
卑弥呼は既に年長で、「鬼道」の力もなく、魏勢力により殺されてしまう。
これ以降、 狗邪系は?
------加耶古代史観では
伊都、壱岐、対馬、末羅は → 元来 「呉:系
任那系加耶 半島経由 南方呉系 半島の賀洛国と同じ流れで、ここでは任那系加耶とする。 「臣」
狗邪韓国 邪馬台国、投馬等 → 後漢の乱れで南下。この流れは新羅のうちのひとつ、
「ここでは狗邪(加耶系)
「君」
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日本書紀によると
第六書 加羅系
(壱岐、対馬なく、オノゴロもなし ) 物部 新羅に従属--沖ノ島海路
七 コムナリ加耶 (壱岐、対馬あり。 オノゴロはない) 倭先住 ---対馬壱岐
八 狗邪 邪馬台系 (壱岐、対馬なく、、オノゴロあり) 邪馬台国の時代
記紀には「卑弥呼」の文字は一字もない。卑弥呼は日本書紀のどこに隠れているのだろうか?
全国最古の大型前方後円墳である桜井市箸中の箸墓古墳
考えてみれば、卑弥呼の痕跡ありそうなところは、いずれも他の勢力により殲滅されるか統合されてしまう。 結局、卑弥呼は歴史の敗残者であるので、勝者の歴史書には載らないのだろうか。 何故か?
本来、卑弥呼の狗邪系は「鮮卑」系が中心、中国でも北魏では権力を握るが、「漢」に融合して「鮮卑」は消滅する。
、「高麗、百済、新羅、任那」と続くが、 狗邪系はその任那、実は「加羅」だが、それに融合してしまう。 その加羅でさえ、新羅に併合されてしまうので、その前の「狗邪」など歴史には残らない。
前方部がばち型に開く、特異な形状
箸墓は卑弥呼の墓かもしれない。 倭の大乱 2世紀後半には狗邪集団は大和南部へ進出した。卑弥呼のいた邪馬台国は筑紫であるけれども、その頃は既に大和東南部にも進出している。 魏からもらった鏡とかも大和に運ぶ。
卑弥呼死後、彼らは新天地で卑弥呼を偲んで墓を作った。 箸墓である。 箸墓の由来そのものも意味深である。 倭迹迹日百襲姫ヤマトトトビモモソヒメ命は箸に陰をついて亡くなるという不慮の事故である。いや不慮の事故か、もしくは自殺なのかも不明? 亡くなり方が不自然なのは卑弥呼の似ている。
それの端緒が「大物主神」、三輪山の神。この墓は、「日は人作り、夜は神作る」
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邪馬台国 地図
王塚古墳は我が国最古の装飾古墳で、「穂波の君」のお墓といわれ
岩戸山古墳(筑後)
大谷古墳(和歌山 紀ノ川)
将軍山古墳
筑後大和合体 地図比較
Cf.
物部 物部氏HP