外宮は雄略22年 豊受大神宮--鎮座とある。どこからきたかと? 元伊勢神社、丹後にある元伊勢外宮豊受大神社といわれる。
豊受大神宮
元伊勢 豊受大神社--船岡山 丹後屈指の巨大古墳、
天御中主神又は國常立尊とも云う
加耶古代史観
ただ、雄略21年は476年、コムナリを百済にあたえて国を救い興した時、雄略の故地を百済に明け渡して倭国へ移る記念すべき年代である。 加耶領域最大の瞬間から衰退に移行する頃、雄略が倭にやってききて、神も伊勢に鎮座。
コムナリ加耶=北方漢+粛慎+南方呉
豊受大神宮の神の「國常立尊」のルーツは「粛慎」系
「南方呉」の基礎は黒潮、だから伊勢は古の故郷である。
コムナリ加耶の古の故郷は「呉」、黒潮海流の流れで倭にやってきた集団にとって「伊勢」は格別の土地である。。
内宮については神代紀、崇神神から垂仁に詳しく記載がある。
ある書第一 任那加耶の天孫降臨
神代記
加耶古代史観では任那加耶が半島から倭へ回帰する時、、、。
任那加耶が第一、、。 伝説は別として、実際の時期は3世紀後半かと推察。 古墳時代に入る頃。
洛東江河口の賀洛国からの倭への回帰である。背景には卑弥呼集団狗邪系の進出あり、半島任那加耶や倭では新しくやってきた「狗邪系」に侵食される。この時期が任那加耶が倭へと回帰するターニングポイントになっているのだろう。
日本書紀第一 (任那加耶)
先導役として登場、 一足先に伊勢に下りる。
天神の子はは「筑紫日向高千穂クシフル岳 」に、
猿田彦大神は「伊勢狭長田五十鈴川上」に至るべしと -----
高麗(任那加耶)=南方呉+夫余+倭
崇神6年 AD269年
加耶古代史観では崇神は狗邪系加耶の大和入りの時期。3世紀後半
卑弥呼なきあとの狗邪系は大和に構える。
---------------------------------------------------------------------
この頃百姓さすらう。天照大神と倭大国魂を一緒に祭っていたが 国内混乱
この二つの神はその神の勢いを怖れて共に住みたくないとして分離 。
天照大神を「豊鍬入姫命」につけて倭笠縫村に祭り、日本大国魂神を「ヌナキイリ姫命」
につける、だが、淳名城入姫 髪落ちて祭ることできず。
崇神7年 AD270年
神明倭ととと日百襲姫命にかかりて、ご神託、、。
「これでも収まらず、今度は大物主神が登場、
→ 我が子大田田根子を持って大物主神を祭ると納まるとあり、
また海外の国もおのずから帰伏する」という。
大田田根子→大物主大神 ----ちぬ 陶村
市磯長尾市 →倭大国魂神を斎う主
田根子は活玉依姫の子----三輪君の始祖
これで収まる。
崇神10年 AD273
以降、倭トトヒモモソヒメ命は大物主神の妻になり、
大神はおろち、、それを発見して驚いて箸で陰を突く等、箸墓古墳の由来へと続く。
-------------------------------------------------------------------------------
加耶古代史観では垂仁は加羅系の大和入りの時期
加羅は狗邪系を基礎とするが、「夫余」系が混交したもの。3世紀末からは「夫余」系の浸透がる。背景には高句麗の南下あり、313年には高句麗建国。
半島南部では加羅諸国が強くなり、西のコムナリ加耶とも連携するころで、加羅系が半島や倭で勢力を伸ばす。洛東江河口「賀洛国」 南方呉系の任那加耶が衰退を始める時期でもある。
天照大神の伊勢鎮座は任那加耶の倭への回帰を表す。
垂仁25年 ( AD356年)
天照大神を豊鍬入姫命から離して倭姫命につける。
倭j姫命は大神を鎮座の場所をもとめて宇陀へ。
また引き返して、近江に入り、美濃を回って伊勢国へ 。
このとき、天照大神は
「この神風の伊勢国は常世の浪の重な浪帰する国、傍国のうまし国、この国にいたい」
大神の教えのままに社を、斎宮、五十鈴川上に。
」なぜ伊勢が選ばれたのか、その答えを自ら答えているけrど
「すなわち天照大神の始めて天より降ったところだ。」
この言葉こそ、半島から古の倭へ回帰したことを表現している。
元来、倭先住 南方呉系から見れば伊勢は黒潮の流れに近い。
----------------------------
元伊勢 豊受大神社--船岡山 丹後屈指の巨大古墳、
丹後にある「内宮皇大神社」「外宮豊受大神社」は三重県伊勢の元伊勢といわている。
丹後と伊勢?