奴から伊都へ「日向峠」を越える 筑紫日向の地

 今の博多から西へ行くには、??
(1)海岸沿いに212号線 を行く。 
(2)日向峠越え 近道  を越える山道
この両者は最後は前原を過ぎてから合流する。

 「日向峠」は「ヒュウガ」とは読まずに「ヒナタ」という。博多の市街地を抜けて、油山を左に見て走る。 日向峠の東は、急な九十九折の視界の利かない山道を登る。 日向峠、道路の乗り越し時点も、そう視界がきかない。しばらくおりると開放的な緩やかなくだり道 となり、前方に前原平野が見えてくる。富士に似た「加也山」を見ると、「伊都」の国である。

記紀でも「日向」が良くでてくるが、「筑紫日向」の表現は、このあたりを言う。
 

[委奴」は「イト」と読み、まさに「極南界」

    
後漢書東夷伝
建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。桓靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無〓主。有一女子、名曰卑彌呼。
 建武の中元2年(57年)、「倭奴国」は光武帝に奉貢朝賀している。その国は「倭国の極南界」とある。 この「極南」の解釈が重要である。後漢の頃、楽浪郡を通じて、倭は「漢」と交流している。
私は、「倭奴国」は「伊都国」を指し、1世紀当時の「倭」の範囲は、半島の一部から、対馬海峡、 玄界灘沿岸にかけてあり、「倭奴国」はまさに「極南界」だった。
つまり、半島南部の地域から、玄界灘にかけての一つの海洋国。志賀島で天明4年(1784)、発見された金印、middleすなわち「漢委奴国王」の文字を「ワのナ」と読むか、 「イト」と読むか議論ある所で、昔は「イト」と読まれていたのに、現在では「ワのナ」と読むのが通説となっている。
漢の委奴国王 ? 後漢のころ、1世紀には漢に属する「委奴国」が北九州にあった。この後漢書の記事と、対岸の賀洛国の建国神話に出てくる時期とほぼ同時期にあり、興味深い。

何故、「伊都」から離れた「志賀の島」で発見されたか? 倭
 日向峠のこの間から伊都国、可也山を見る。

加耶古代史観 表紙
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