神功の新羅征討

 

   神功摂政前期  新羅征討  人質
   神功前期
   神功後期

 神功の話はいろんな要素が混在している。まず、摂政前期の新羅征討は
第一の天孫降臨のあと、加耶系が巻き返して新羅を攻めていく説話である。任那と新羅の争いは古くからある。 

神功摂政前期ー

熊襲(新羅) 征討 の動機

 仲哀8年

  「なんぞ、熊襲の服さないことを愁うるか? これはそししの空国だ。 敢えて兵をあげて討つことも不要だ。 この国に勝る宝のある国、例えば、乙女のマヨヒキのように、津に向かえる国有り。金、銀、彩色、その国に多い。 それをタクブスマ新羅の国。 吾を祭れば、刃に血を塗らずして、その国は自ずから従うし、熊襲も従うことよ,,,。 
 」
神功 倭から半島へ 神功往路は神がかりな記事。 渡海に関する神々の誕生。

  神話でもそうだが、 まず海神、航海神が登場
ここで、登場するのは、「竹内宿禰」が琴をひき、「中臣鳥賊津使主」が審神者と成る。神のお告げは? どうか?

 「なんぞ、熊襲の服さないことを愁うるか? これはそししの空国だ。 敢えて兵をあげて討つことも不要だ。 この国に勝る宝のある国、例えば、乙女のマヨヒキのように、津に向かえる国有り。金、銀、彩色、その国に多い。 それをタクブスマ新羅の国。 吾を祭れば、刃に血を塗らずして、その国は自ずから従うし、熊襲も従うことよ,,,。」

    神風伊勢の国 撞賢木厳之御魂天疎向津姫
    尾田 吾田節 淡郡 に居る神
    天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神
    日向国橘小門 表筒男、中筒男、底筒男--住吉三神

和魂は王身に従いて、寿命を守る。荒魂は先鋒として師船を導く」
依網吾彦垂見を祭りの神主
神風は追い風、魚どもが背負う、 波にのって新羅の国へ、津波のごとく攻める。 

神功征討の結果馬はたけ及び馬鞭 


      神功征討の結果は?  

(1)
 新羅は飼部となって、春秋、馬はたけ及び馬鞭を献上すると約束。  馬はたけは,馬の毛を洗うはけ(櫛)、。 さらに新羅の王は、金、銀、彩色を載せて、常に八十船の調べを貢ぐようにもなる。

馬のはけや、鞭をもらって喜ぶのは誰か? ここに、馬がらみのことは?  やはり「鮮卑系」の騎馬民族の臭い・。 皇后の持つ矛を新羅の王の門に立てた。後の世の印として、今なお、新羅の王の門に立っていると書かれているが、,,。

一方、高麗、百済は「内官家屯倉」とする。 これがいわゆる三韓
  ここに新羅の王、ハサムキム、すなわちミシコチハトリカンキを人質として、金銀等八十艘にのせて帰ってくる。

人質を取る 日本書紀と三国史記との接点  

新羅の歴史書と比較すると、確かに人質の話があるが、時代的にはごちゃまぜのねつ造記事となる。
   
(1)
  日本書紀の記述の新羅王は伝説的な「ハサムキム」であり、これは新羅第5代 (80--112)の頃となる。系統で言えば、(鮮卑北方漢) まだ加耶が新羅よりも強かった時代の話

 当時、新羅は「加耶」と争っている時期で、123年には新羅は倭国と講和。 当時の新羅は、まだ半島南部、洛東江河口付近にあり、加耶と争っていた 。 この加耶は日本書紀の言う「南加羅」、加耶とは201年講和している。 
   
(2)
人質は「ミシコチハトリカンキ」 、歴史的には 倭国の履中(加羅系)の時代まで飛んでしまう。、加羅カヤが倭国で勢力大の頃。 、

人質を獲る時期は新羅関係の歴史書では
 三国史記では第16代実聖王実聖尼師今立 元年(402年)、
 
ミシコチはナムル王の子、未斯欣。
三国史記では
402年から418年までミシコチは倭国滞在。この滞在時期は実聖尼師今立  (402--417)「実聖王」の時代だけで、訥祗麻立干立 (417--458)になると帰国したっようだ。 

人質が逃げ帰る?

倭国では
 ミシコチが還ったのは、418年で倭国では允恭(新羅系)の時代になってからである。

加耶古代史観からこの允恭は新羅系と分析される。
 時期的にみて倭国に新羅の覇権をたててから帰国していることは、両国の力関係なのだろうか?

葛城ソツヒコがついていくが、途中、逃げられてしまい、追いかけて、新羅まで行き、、「タタラツ」に宿りて、草羅城を抜いて捕虜の「漢人」を連れて帰ると、具体的になる。 洛東江河口に「漢人」が既にいたことは??  先ほどの神功征討よりも、ぐんと具体的になる。 

なお、新羅は、ナムルワン32年(392年) 実聖を高句麗へ人質として送る。 このころ新羅は(夫餘+南方呉)系で高句麗に近い。!!

奈勿尼師今立 姓金 (356--402)
実聖尼師今立  (402--417)
訥祗麻立干立 (417--458)


新羅の歴史書 倭の侵略
  

倭の新羅への侵略に対抗する話
倭兵、倭軍の文字有り、倭と新羅の争いがかいま見られる。ただ、これもカヤが新羅に併合されると倭の襲撃の記事はなくなる。

  ----------------------参考資料----------------

倭の新羅への攻勢
122年 夏4月 倭人 国境侵す
124年  倭国と講和

178年  卑弥呼 新羅へ遣使

232年 倭人 金城包囲  追撃
249 年 倭人 侵入
      倭人 襲う
      倭兵 沙道城 攻める
294年 倭兵 侵入 長峰城
 3世紀末、北方文化が流れ込み、この流れは新羅と倭国に及んだか?  この頃はまだ、倭国と新羅は友好関係にあり、 新羅との対立は4世紀半ば以降となる。 ナムルワンに成ってから、倭の来襲の記事は詳細は極める。? 
  
関連事項
   3世紀末の北方文化の移入以降は、新羅、加羅とも国家としての体制を整える。4世紀前半は、両国は友好、しかし、4世紀後半は 

新羅  ナムルワン時代 
加羅  加羅諸国平定  コムナリ加耶との共闘

として対立関係に入る。

ナムルワン(356年--402年)  以降 倭の侵略


ナムルワン以降,,。

346年 倭国と断絶  倭軍 風島襲う

393年 5月、倭軍侵入 金城を5日間囲む。敵は舟を棄て、内陸深く入り込んでいるので、その矛先は防げないとして持久戦に持ち込む。敵が帰るところ騎馬隊300人を派遣し、賊の帰路を遮断。歩兵隊千人を派遣して独山に追い込み、挟み撃ち。倭軍を大敗させ、多くを殺し捕まえた。

405年 4月 倭兵 明活城を攻める。帰りを待ち伏せ。騎兵で独山の南で300人を殺し、捕まえた。

408年
 倭人が対馬に軍営を置き、兵器、資材、食料を貯え、我が国を襲撃準備。王は倭軍の動き出す前に敵を撃破したいと思った。しかし、重臣の意見、「軍隊は凶器、戦争は危険。大海を渡って他国を討伐し、万一勝利を失うならば悔やんでも追いつかない。賊軍が来たならば、これを防ぎ、侵入して悪いことをしないようにさせる。有利になればそこで出撃して敵を捕まえる。相手を意のままにし、相手には思い通りにさせないのが、最もよい策略」との忠告を受ける。

444年4月、倭兵、10日間 金城を包囲。食料が尽きたので引き上げようとした。窮地におちいった敵を追撃してはならないという重臣の意見を聞かないで、王は数千余騎を率いて追撃して独山の東で合戦。大敗し、将兵の大半が戦死。王は山へ登り、突然の濃霧で助かる。

加耶古代史観へ