新羅系淳仁天皇は何故、淡路に流されたか?


悲運の淳仁天皇


新羅系淳仁天皇は、何故淡路に流されたか?

(1)淡路島 淳仁天皇陵 
(2)大友皇子の悲運
(3)持統天皇の復讐
4)新羅の血が濃い「淳仁天皇」の悲運


(1)淳仁天皇陵


慶野松原


淡路島をざっと見ても山がちである。 平野らしいものは、西南部にわずか広がる。 三原川下流の西淡町、その上流の丘陵で南淡町、三原町あたりの三原平野である。古代、西からやって来た集団はこの三原平野に住んだことだろう。 
「悲運の淳仁天皇陵」は、それら丘陵の西の端、南淡町賀集にある。 以下、地図参照


慶野松原から 南下して、西淡町方面向かう。 しばらくして三原川にかかる橋をわたり、
左折する。山際の県道31号線を南下、西淡三原ICを過ぎ、28号線と交差するところが賀集八幡である。
周りは見通しが来たところで、
そこからは左手前方に樹木が生い茂った古墳が間じかに見える。近づいて1周してみる。 

 大王池が東側にあり、当初は周濠だったのだろうか? 今は改修して立派な溜池となっている。 西側を歩くと、巾2mくらいの濠が続いていて、外側はやや高くなった堰堤風である。 金網の柵もなく、飛び超えて中へ入れそうである。 

また形そのものも、いびつである。宮内庁による拝所は陵の南部にある。 淳仁天皇の生い立ちを見るに、672年の「壬申の乱」まで遡のぼらねばならない。

 

(2)大友皇子の悲運

ここで壬申の乱を見ていく。 壬申の乱 政治的動機の解説は難しいので、別項に譲る。

日本書紀では、天智と天武は兄弟になっているが、事実はそうではない。

 天智天皇は温祚オンジョ百済
 天武天皇は新羅人である。 

天武天皇は侵略者、皇位簒奪者の汚名を避けるため、物語を捏造した。(日本書紀は天武天皇の子、舎人親王が編纂)

勝利者の天武(新羅系)は、敗残者の温祚オンジョ百済系大友皇子を初め、多数殺害、殲滅 子女は、多数 略奪。 残る天智天皇女子10人のうち、4人を自分の姫にしている。 また天智天皇の男子は4人しか記載が無い。 女子10人の割合には男子4人と少ないので、男子は6人と居たという説もある。 

なにしろ、壬申の乱の主人公、大友皇子は天智天皇が宮中の女に生ませたもので、もっとも皇位継承の低い男子である。 実は大友皇子はダミーで、本当の「皇太子」等は壬申の乱後、重罪として処刑されたか。 大友皇子は東方に逃げ延びて、相模へ落ちるという伝説もある。 現に、相模の大山の麓、大山に登る途中、日向薬師の近くに「伝弘文天皇」の墓がある。

 もちろん、大友皇子の即位について、日本書紀は何も記していないし、大海人皇子(天武天皇)の立太子の記事も天智記には無く、闇である。

-天智天皇の男子--------------------
-

古人大兄皇子の娘 倭姫王 -正妃-に迎える。      
蘇我山田石川麻呂
    (越智娘) -
      --建皇子 8歳で没 斎明4年
  
         -
大田皇女、鵜野皇女(持統天皇)
       (姪娘) 
      ----御名部皇女、阿部皇女(後に、元明天皇。 文武天皇の母)
安倍倉梯麻呂大臣(橘娘)
        --飛鳥皇女、
新田部皇女-
蘇我赤兄大臣 (常陸娘)
   --- ----山辺皇女

宮女系 
忍海造小竜 (色夫古娘)
        
大江皇女,
        --川嶋皇子  持統5年没 壬申の乱では、何故か天武側につく。
        --泉皇女
栗隈首徳万 (黒媛姫)
        ---水主皇女-
越道君伊羅都売
        ---施基皇子----光仁天皇の父で、春日宮天皇と追尊。 施基皇子のみが、生き残り、中枢に残る。
伊賀ウネメ宅子娘 
        ---伊賀皇子を生む。 大化4年産まれ 後の名を大友皇子-壬申の乱で敗死
            明治に弘文天皇と命名

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(3)持統天皇の復讐


勝利者の天武天皇の男子はどんな運命になったか? 決して幸福な生活を送ったわけではない。天武側へ無念の涙で組み入れられた4人の天智天皇子女は、天武天皇後継の子を次から次へと生む。 天武天皇関連の男子は10名。

 だが、彼らの末路は悲劇である。

皇太子
「草壁皇子尊」は689年に没し、次いで、後皇太子「高市皇子命」は696年、没する。次いで、大津皇子も謀反したとかで没。 主要な男子は次から次へと居なくなる。 私は殺害されたと考えている。
問題の淳仁天皇の父、舎人皇子は第三番王位継承者であり、何事もなければ彼が継いでいたことだろう。 だが、持統天皇は、結局、697年、文武天皇に譲位する。 おりしも、後皇太子の高市皇子も死去して直ぐである。(ここで日本書紀は終る、)

文武天皇の父は草壁皇子で、母は天智天皇の子女の阿部皇女(後の元明天皇、奈良へ遷都 710年)である。 文武は持統天皇にとって孫である。
持統天皇は自分達の兄弟等を殺害した「天武」を決して許さなかった。 例え、自分の子であったとしても、天武天皇(新羅系)の血が濃い子供には皇位を継がさず、壬申の乱の後、実に25年、 父、天智天皇の血を引く阿部皇女が子を生み、孫に譲位できるまで待ったのである。

----------------------資料-(3) 

天武天皇の子供------------


持統(鵜野皇女----草壁皇子尊」 壬申の乱では最初から天武天皇に共。 天武10年皇太子となるが、持統3年4月(689年)死去

大田皇女 ---大来皇女
     ---「-大津皇子」壬申の乱では、近江から脱出、天武に鈴鹿で合流
  、朱鳥元年 天武天皇の死にあたり皇太子に謀反したとかで、断罪 24歳で死去

大江皇女----長皇子」「弓削皇子」

新田部皇女 --「舎人皇子」 第三番目の王位継承 天平7年没 日本書紀編纂 養老4年5月上奏

藤原大臣 氷上娘 --但馬皇女
       五百重娘 --新田部皇子

蘇我赤兄大臣 オオヌノ娘 
             ---穂積皇子、--紀皇女、--田形皇女

胸肩系徳善の娘 ---「高市皇子命」壬申の乱では、近江を脱出、全軍を任されて活躍。皇太子草壁がなくなった後、4年7月(690年)以来、-後皇子となるが持統10年(696年)死去 

宍人臣系----忍壁皇子 壬申の乱では、吉野から天皇と共。 後、大宝律令の選定を主催 天武10年3月には、川嶋皇子とともに、帝紀等の記定事業に参画、       ---磯城皇子

(4)新羅の血が濃い「淳仁天皇」の悲運

淳仁天皇は、天武天皇の孫で、舎人親王の長子である。 (母は当麻山背)何故、廃位されて、淡路島に母とともに、流されたか?持統天皇の孫は、めでたく文武天皇として即位したのに。 日本書紀の序列と、当時の政治状況をみれば判る。

[ 第一 ]天智、系統(半島にいた半島加耶、後、百済領になってから倭へ渡来)
[第二]    藤原 (半島百済系)
[第三]   天武 (半島新羅系)
[第四]    物部 (半島加羅系 

舎人—淳仁は、[第三] 天武 (新羅系)である。 持統天皇は、舎人に譲らず、文武に譲位した。 母の阿部皇女(元明天皇)は新羅の血が1/4混ざるが、文武も同様の1/4でまだ少ない。 新羅の血が1/2の舎人はもはや用済みである。

さらに当時、実権をにぎっていたのは、[第二]  藤原 (百済系)である。 百済は滅亡寸前、642年には、新羅が6世紀後半以降、占有していた任那(加耶諸国)を百済が占有する事になる。 百済国自身は660年滅亡するが、日本に逃れた百済系は日本国建国に深く関与する。 645年の大化の改新は、倭国の蘇我大王を倒す「クーデタ」だが、百済の「中臣」のちの藤原鎌足が暗躍する。 詳しくは別項

日本という国号になるのは、大化改新以降である。 

舎人親王は、父天武天皇の遺志を継ぎ、ようやく日本書紀を完成する。 確かに、新羅系天武天皇の万世一系を貫いたが、内容的には、新羅に故郷を滅ぼされた「百済」や「加羅」系の怨念が渦巻いているし、実際の編集をリードしたのは、百済系「藤原鎌足」であろう。

天皇系を見ると、高句麗系漢人、つまり任那加耶の流れが残るが、実際の政局は百済人の鎌足系統が日本国を裏から操る事になる。 新羅系は凋落の一途である。

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