大化の改新 「韓人、鞍作臣を殺した」


舒明以降と推古以前の違いは?

加耶古代史観からの分析では、
   推古以前は、倭国の歴史
   舒明以降は、日本国の歴史
である。 
簡単なことであるが、記紀の最大の相違点は、

  古事記は推古で終る。 これは先住加耶(高句麗系)の書出であるゆえ、その蘇我馬子が崇峻を暗殺して、実権を握って倭国を完成、。 日本書紀では「馬子」が無くなるところで推古も終る。  古事記には天武は登場しないし、「倭」はあるが、「日本」という言葉はない。 

一方、日本書紀は舒明以降、天武、持統で完結する。 「倭」の言葉はなく、「日本」である。 もっとも倭も日本も「ヤマト」と読まれる。 
「韓人」とは、漢から融合した集団、百済とかである。 

舒明 即天皇位 13 己丑 629
皇極 即天皇位 3 壬寅 642
孝徳 壇に登り、即祚 10 乙巳 645
斎明 即天皇位 7 乙卯 655
天智 七年 即天皇位  10 壬戌 662
天武 乃帝位即 15 癸酉 672
持統 4年 即天皇位 11 丁亥 687
文武 698

舒明の歴史


宝皇女(後代の皇極) を皇后とする。 対外関係は

  高麗大使アンシバイ、小使若徳、  
  百済大使恩率素子、小使徳率武徳が共に朝献 
  大唐に 大仁犬上君三田スキ、大仁薬師恵日を送る。 
  百済王義慈 王子豊章を入質

4年秋、大唐から高表仁を派遣、ミタスキを送る。 このとき僧達(学問僧霊雲、僧ミンと新羅の送れる使いが共に来る。

11年秋 百済川のほとりを宮どころとする。
 大唐の学問僧恵穏、恵雲、新羅の送る使いに従いて入る。
12年冬 大唐の学問僧清安、学生高向漢人玄理、新羅より伝わってくる。 新羅・百済の朝貢使い、ともに来る。

       舒明成立後、高麗と百済から朝貢 ---
       新羅経由で、大唐と行き来     ------
       百済から王子 人質

皇極の歴史

 皇極 敏達のひ孫、彦人大兄皇子の孫、チヌ王の子  、母は吉備姫王とあるが、基本的には高麗系である。 

蘇我大王系は「蝦夷」のほか、その子、「入鹿」が登場する。 ここは「入鹿」が山背大兄王を殺害、さらに、大化の改新が起こる大事なとき。 

     百済国から弔使  筑紫 百済の最近事情
     高麗 使い 難波津  高句麗の最近事情を話す
     新羅からは駕謄極使と弔使


軽皇子 登場 蘇我臣入鹿の乱 

   軽皇子(孝徳)も突然、登場する。 これも 高麗渤海 系? 

2年夏 百済国の主の児 ゲウキダイ王子 筑紫へ
     高麗、百済 来朝

大事件(1)

入鹿  
      独断、 上宮の王をみすてて、古人大兄をたてて、天皇に策略 。(倭よりは(倭+日本)集団に傾く。 時代の流れを掴んだか。 蘇我臣入鹿は小徳巨勢徳大臣、大仁土師サバ連を派遣して、斑鳩の山背大兄王等を襲う。山背大兄王等は自ら自殺して果てる。 聖徳太子系の終焉
(2)

3年 中臣鎌子連 登場   軽皇子、中大兄とのクデタ計画を練る。 法興寺の槻の下、蹴鞠の場はあまりにも有名。 ここでの問題は中臣鎌子 出自 

天孫を持って鞍作に換えんや

4年6月 クデータが実行 。 まずは入鹿を殺害、 その後、蝦夷をも殺害。 

実行犯は
   中大兄 長い槍  「天孫を持って鞍作に換えんや」
   佐伯連子麻呂 
   葛城稚犬養連網田

   倉山田麻呂臣 表を読む
   中臣鎌子連等 弓矢で守る  

この中大兄の「天孫を持って鞍作に換えんや」の意味は?  例えば天孫とは「朝鮮半島からの天孫降臨」


韓人、鞍作臣を殺した


云わせた古人大兄は宮に帰り、 「韓人、鞍作臣を殺した。我が心痛し」と叫ぶ。
中大兄は法興寺に入り、篭城
蘇我側は兵をあげて反撃しようとするが、高向臣国推は漢直に武装解除を要請、 皆は散り逃げる。
蘇我蝦夷は、「天皇記、国記、珍宝」を焼く。 船史恵尺が焼かれる国記を取り、中大兄に。
ここで、天皇記は蘇我蝦夷が持っていたのでは? 
つまり、

倭国
蘇我蝦夷の大王を暗殺クデタで倒したこと。 


孝徳 即位 

 大化のクーデタの時は、新羅勢力は弱勢で、大伴も登場しない。 中臣鎌子主導で、高麗系の孝徳とともに、中大兄と図る。 ここでは同じ高麗系の蘇我から孝徳への政権が移る。

ただ即位の時は、
  大伴長徳連   檀の右
  犬上健部君   檀の左
が登場。  
安倍内摩呂臣 左大臣
蘇我倉山田石川麻呂臣 右大臣
中臣鎌子連   内臣----

   高麗、百済、新羅から使い
   巨勢徳大臣 高句麗の使いに詔して、言った内容に「高麗の神の子の使い」
      642年、百済が新羅から旧任那を奪う。


孝徳 歴史 大化のクーデタ後の政権争い

まず、たかみくら「檀」に登りて、即祚す(あまつひつぎしろしめす)
殆どh「天皇位」であるのに、孝徳は違う。
まず、「檀」は中国系  以前の雄略などが代表的 孝徳の時代は唐との接触だから、北であろうか。 さらに「即祚」はまったく他と異なる。 

このときの皇位争いは
(1)
皇極は中大兄に譲位しようとするが、中臣鎌子連が取り仕切る。 大化の改新もそうだが、影の企画者は中臣鎌子連である。

(2)
 また、642年には、百済は任那を新羅から取り返した。日本書紀では「百済に属け賜う」との表現であるが、百済が任那を領有したことには変わらない。 このように大化の改新は、百済勢力の強盛が背景にある。 以降、任那は百済支配下となる。 舒明の時は、新羅系大伴が取り仕切ったのだが、ここで、百済が力をつけてきて、新羅と百済は均衡して来る。

「古人大兄  中大兄の兄
軽皇子 中大兄のおじ」
弟は謹むとして、辞退させられる。 一方軽皇子は再三固辞、古人に譲る。 だが、古人は、出家して吉野へ。
軽皇子は固辞できず。 たかみくら「檀」に登りて、即祚す。


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