加羅の強盛 、任那

北方文化の移入


  3世紀末、洛東江河口、任那の駕洛国に、突然、ジャンプして北方文化が移入する
「夫餘」か「鮮卑」か? 考古学的
   外部リンク ようこそ金海市   
   大成洞遺跡 
  「 人と馬を一緒に殉葬し、武器を折り曲げて副葬する習慣 騎馬用の鉄製甲冑、北方遊牧民族的墓制、馬具類、陶質土器、オルドス形銅復など、遺物」

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体どこから来たのか?ここでは「夫餘」か「鮮卑」か?これも新羅建国神話ー3を参照すると良いが。 当時は鮮卑も次第に漢化されて、中原への進出を狙う時期で、例えば、286年、鮮卑の慕容[广鬼]、夫餘を討つし、遼東を侵す。 一方、夫餘は鮮卑におされて弱体、残党が渡海して南下。

北方文化がジャンプしてくる?


  途中を経由しないという意味。途中は「夫餘系(高句麗系)がいる。つまり、夫餘系をパスすることは鮮卑系ということか?この途中のコムナリ加耶は、南方呉系もあり、南方にも親しい。

 中原では4世紀以降は「鮮卑」の活躍舞台。魏呉蜀の三国時代には、魏のすぐ北辺にが鮮卑が迫る。東晋十六国時代(4世紀始めから5世紀始め)には北は十六の北方民族が乱立、5世紀になって、北魏、南宋となるが、北魏は鮮卑族 
こういった中原の状況で、朝鮮半島にも鮮卑の影響は?

半島南端にやってきた北方文化は夫余系?または鮮卑系か?


任那は一足先に倭へ

   駕洛国の勢力はどうしたんのだろうか?  
もう駕洛国はは存在しない。 なにしろ、3世紀半ばでも、もう駕洛はなく、「弁辰狗邪」。
とういうことは賀洛すなわち任那加耶は3世紀半ばにはもう倭へ回帰していることになる。
倭の大乱 2世紀後半には第一の天孫降臨がある。。

3世紀半ばといえば卑弥呼の時代に近い。
狗邪系の進路は
  巨済島から 倭へ南下  --卑弥呼集団
  半島 沿岸沿い    狗邪系新羅 (ソラ)

卑弥呼集団が筑紫沿岸を獲得した時点で、半島では同じ狗邪系が洛東江河口の賀洛国も
?狗邪系の進出に出くわしたか。 そして洛東江流域は狗邪系に握られてしまう。

狗邪系の進出により、賀洛も領域が小さくなり、洛東江上流への進展も閉ざされて任那加耶は倭へ回帰する。 

中心地 金海だけは538年まで持続

加羅七国平定


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狗邪系は洛東江中上流域の内陸へ発展、夫余系とさらに混交して加羅ができる。

時に369年、日本書紀の言う「南加羅、加羅他 七国平定」である。このときを任那の起源とする説もあるが、大事なのは、「日本書紀は、ここでは任那とは一言も言っていない」点である。  
  「共に、卓淳に集いて、新羅をうちて破った」とある。よって、「比自ホ、南加羅、トクノクニ、安羅、多羅、卓淳、加羅、七つの国を平定」
 これらは慶尚北道南部と慶尚南道東部にある。よりて、兵を移して、西の方にめぐりて、古渓津に至り、南蛮のトムタレをほおむり、百済に賜う」とある。
この「賜う」も曲者。
実は、加羅とコムナリ百済の勢力が、先住の任那からその地域を奪取したのだ。 新羅から奪取したのは素直に書いているが、任那から奪取したのは「賜う」と、誤魔化している。

つまり、一連の事件は、加羅が任那を浸食していく過程である。


4世紀後半 新羅との戦い、すなわち洛東江東岸の確保にかんしては コムナリ加耶の支援も受けて加羅の勢力を強める。

倭の源流は渤海あたりか?

  どこから来たのか?ここでは「夫餘」か「鮮卑」か?これも新羅建国神話ー3を参照すると良いが。 当時は鮮卑も次第に漢化されて、中原への進出を狙う時期で、例えば、286年、鮮卑の慕容[广鬼]、夫餘を討つし、遼東を侵す。 一方、夫餘は鮮卑におされて弱体、残党が渡海して南下。

 駕洛国の時代は海岸交通が主流だが、加羅の時代になって内陸部への展開

西方  小白山系を超えて、錦江流域との接触
北方               漢江上流域との接触

 半島南端よりも文化的刺激を受けやすい領域。騎馬民族? 北から南への動きも指摘されるが、北方文化が半島南端に出現という意味では、北から南への陸路ルートはありえない。そこで、海上路を運んだ集団が必要になるが、いわゆる「倭」である。

いや、倭は、本来、遼東あたりにいて、鮮卑は海岸部へ進出すると共に、倭と組んだか。倭と鮮卑との関係を示す古書の記録
    178年頃  後漢帝の頃   檀石槐、漁業の為に倭人を捕らえて移住させる
この倭人とは、九州でありえず、遼東半島であること推測するが、遼西「遼川」河口あたりか? 渤海沿岸 

5世紀 加羅勢力の倭への展開 

 

 高句麗南進は大部分の脅威であった。4世紀後半、それに押されるかのように
加耶集団は倭に回帰するようになたあ。即ち応神ルートで倭国へ渡った集団である。これは以下の物部系、履中、反正に当たる。


加羅加耶系   --物部系   履中、反正 )
新羅加耶系    新羅     印恭、安康
コムナリ加耶   沸流プル百済+南方呉      平群+雄略


  加羅系以外にも、新羅系、コムナリ百済系が応神ルートで繋がり、これらの国々と倭国との交流が本格的に始まる。 倭国へやって来たのは加羅系だけでなく、新羅系、コムナリ加耶(任那系)と多種多様である。

倭国で考古学的にも騎馬民族の様相が出てくるのは5世紀後半で、製鉄、騎馬、前方後円墳等の最大級が出現する。 それはコムナリ百済の「雄略」が、短期間であるが、始めて倭国を統一する時期でもある。

コムナリから南海岸へ

 朝鮮半島地図
 

日本書紀でも、神功50年(371年) 「タサ城」をまし賜いて、往還の路の駅とする」の記事が参考になる。 日本書紀は百済を書いているが、「コムナリ加耶百済」のことである。

このタサは、慶尚南道と全羅南道との境、  蟾津江の河口付近 ここが、応神路の港となる。 コムナリ百済が、任那の港を奪取したことの意味である。 「賜う」の字は、騙されやすい。 後代、加羅も高霊加羅から南部海岸へ出る場合、このルートを利用する。 

応神ルートとしては、二通り考えられる。
(1)
北からは 全羅北道全州「チョンジュ」から蟾津江上流、次に南原「ナムオン」、智異山を左にみて、蟾津江河口へ。  
(2)
忠清北道太田「テジョン」から、小白山系を越えて、金泉「キムチョン」へでて、(洛東江支流上流を降り、コリョンへ出る 高霊「コリョン」からは黄山江(洛東江支流)を利用して南下して、蟾津江方面へ。

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