加耶とは南北の融合 日本書紀からの結論
第1 高麗 ----------- 夫餘、呉、倭
第2、 百済(プル百済)----漢、夫餘、呉---
第3 百済(オンジュ百済)-漢、夫餘
第4、 新羅------------夫餘、呉、
第5 新羅 -----------夫餘
第6 加羅 ------- 鮮卑、漢、夫餘
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倭国は、その名のとおり、「倭」を基本とするが、
北方からの源流 、「粛慎(夫余)」「鮮卑」
西から 「漢」
南方からの源流 「倭」、「呉」
北から
粛慎は「東北」 中国東北部ウスリー河流域から--春秋戦国時代
松花江上流域へ 夫餘 「東夷の域において最も平らなところ」
夫餘から分水嶺を越えて南下、高句麗の基礎
西方から漢の朝鮮四郡進出 、漢と夫餘の融合。
鮮卑 「北方」---夫余と匈奴の融合⇒東湖
中原に進出して南北朝時代、「漢」と融合、---加羅
南からは倭、呉、--遼東、楽浪帯方の沿岸部へ。
「南方」
倭----遥か南海から、南島系 −−沿岸
呉----春秋時代 「呉族」、戦国時代には「越」が支配、「呉族」は四散 -黒潮海路
西から
漢--「西方」-漢の朝鮮4郡支配、百済、新羅誕生
倭は渤海から済州島、巨済島から倭はどうか? 入れ墨などの風俗は会稽人(越人)と同じだと記されている。 この倭はどこから?
「呉」と同じく「倭」と一語で表現される。何故だろうか?
粛慎とかは二語であるが、、。 「匈奴、鮮卑、渇、氏、羌」 この場合の? 百越は二語、
呉から倭が発生するという見かたもあるが、倭と呉は区別する。 倭族も、表現は一語で、「漢族」に近い証拠。
倭のルーツははるか南海で、沿岸沿いに北上 渤海から列島へ
列島は最後の到達点
倭は渤海、済州島、巨済島へと (鮮卑+漢)とともに!!
日本書紀神々の生成で、「豊」にからむ神、伊勢の豊受
国狭槌尊(または国狭立尊)、豊国主尊(または豊組野尊、豊香節野尊、浮経野豊買尊、豊国野尊、、、)
倭の神だけが、やけに異名が多い。 「豊」の字だけがいつも現れている。
列島での先住民 黒潮海路で!!日本書紀では「呉」は「くれ」と呼ぶ。 「呉」は春秋戦国時代まで遡る。
日本書紀でも「仁徳、応神、雄略」時代に「呉」という国と交流する。呉の国は揚子江下流、当時の中国は、北朝は鮮卑系の「北魏」、南朝 南宋。でも、北朝が段段強くなり、南朝宋は次第に弱くなる。 この北魏は「漢」と「鮮卑」が融合、この「呉」は呉族!!、
中国の少数民族の中に残ってはいないか? 呉族は、はるか古代、稲作をもたらした。 稲の源流は揚子江流域!!
「呉」と関係あるのは「仁徳、応神、雄略天皇」の時代。 もちろん、その当時は「呉」でななく、「南宋」である。 彼らは、南宋の開始から、滅ぶまで倭国と交流する。呉の国は揚子江下流、今の「江蘇省」あたりである。魏志倭人伝で出てくる「会稽郡」にも近い。位置からいううと、揚子江下流域の東は黄海を隔てて九州となる。
、呉、すなわち南宋と交流するのは応神、雄略が顕著で、いわゆる、「コムナリ加耶」にあたる。百済二国論のうち、沸流百済に相当する。 4世紀後半5世紀後半に、応神大移動で、これらの集団は倭へ移住する。雄略は倭国を統一した最初の天皇であるが、外来の新羅・加羅勢力に滅ぼされる。
「呉」という名称は、「夫餘」の粛慎とも同じく、日本書紀が自分達のルーツを暗示させるシグナル。 はるか遡れば、春秋時代(BC770-BC476)に、「呉越」の「呉」がある。 紀元前五世紀前半、熾烈な呉越の戦いが越の勝利に終わって、呉人は逃散する。
呉系は黒潮海路で列島へ、列島の先住民!! もちろん北方から縄文人がいたろうに。
ついで、3世紀、三国時代の「呉」の時代。
江南一帯を配下として、海運力に優れていて、北は高句麗、南は南洋のほうまで通じていた。呉は魏をけん制するため、高句麗と通じてもいた。
三国志 呉の国を訪ねたことがある。三国志 呉の国 鎮江 。
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東北からの源流「 粛慎」(みしはせ)
外部リンク 三国志魏書 東夷伝
三国志を見ても、粛慎にからむ国土は豊かではない。かれらは南下して、南方からの「呉」、西方からの「漢」からの流れに入り、新天地を求めた。
夫餘は長城の北にあり、玄菟を去ること千里、南は高句麗と、東は婁と、西は鮮卑と接し、北に弱水(松花江か?)あり、方二千里ばかり。戸八萬、その民土着し、宮室・倉庫・牢獄あり。山陵・廣澤多く、東夷の域において最平敞なり。土地、五穀に宜しく、五果を生ぜず。
高句麗は遼東の東千里にあり、南は朝鮮・貊と、東は沃沮と、北は夫餘と接す。丸都の下に都し、方二千里ばかり、戸三万。大山・渓谷多く、原沢無し。山谷に隨い以って居をなし、澗水を食す。良田なく、力(つとめ)て佃(田)を作るといえども、以って口腹を実すに足りず。
東沃沮は高句麗蓋馬大山の東にあり、大海に沿いて居す。その地形東北狭く、西南長し、千里ばかり、北は婁・夫餘と、南は
貊と接す
婁は夫餘の東北千余里にあり、大海に濱(そ)い、南は北沃沮と接し、未だその北の極むるところを知らず。その土地、山険多し。その人形夫餘に似るも、言語は夫餘・句麗と同ぜず。五穀・牛・馬・麻布あり。⇒「粛慎」
は南は辰韓と、北は高句麗・沃沮と接し、東は大海に窮す、今朝鮮の東皆その地なり。戸二万。
粛慎は日本書紀では「みしはせ」と呼ばれる。 粛慎は 現在、中国牡丹江流域からウスリー河にかけての中国東北部、黒竜江省東部にあたる。春秋時代の地図 狩猟採集民族ツングース系
日本書紀では、 具体的に出てくるには
欽明5年(544年)12月 佐渡に粛慎人 留まる。 鬼のごとくあり、飢えて死ぬ。
斉明5年(659年) 三月 安倍臣が船二百隻で、粛慎国を討つ。
とあり、日本国と粛慎との交戦の記録がある。ただ、この頃は「粛慎」という国名でなく、⇒勿吉⇒「マツカツ靺鞨」 と変わっていく。 粛慎という呼び名は後漢まで
粛慎は古代から登場するが、主力は南下して、秦の時代には夫餘が誕生、以降、東漢時代に発展的解消⇒ 高句麗、百済へ転化。 唐の時代には渤海
、[東普 十六国]時代には夫餘⇒契丹
古代粛慎
満族-----満族分布在全国各地,其中以遼寧省最多
ホジェン(赫哲)族-----黒龍江省
オロチョン(鄂倫春)族----内蒙古自治区、黒龍江省
エヴェンキ(鄂温克)族----内蒙古自治区、黒龍江省
古代鮮卑の子孫
シボ族*---
夫余、粛慎 ⇒現在では中国東北部に住む少数民族、「満族」に通じる。 かって、満族は「大清帝国」を樹立? 満族分布在全国各地,其中以遼寧省最多 古代から一貫して存在
鮮卑の歴史 中国北方アルタイ系遊牧民族で、そのもとは「東湖」で、起源は大興安嶺山脈
2世紀末 後漢の乱 で、檀石槐 強盛、
3世紀中葉あたりで、一旦途切れる。
4世紀から強盛 慕容氏 前燕 337〜370 後燕 384〜409 西燕 384〜394 南燕 398〜402
? 卑族是我国北方阿?泰?系游牧民族,其族源属?胡部落,?起于 大興安嶺山脉
夫余系と匈奴の狭間で発生、元来は東湖、
、東胡が匈奴に滅ぼされると、残りは遼東に去り、鮮卑となる。
燕を建国。あとの「北魏」等、南北朝の北朝、以降、民族の大融合の時期。草原の道ではるか西方とも繋がる。
新羅の第一の建国神話には「馬」と「卵」が登場する、だから、この馬は遊牧民族の象徴、卵は南方神話から。−−−この流れは「卑弥呼」にも繋がる
4世紀以降の流動の時期に中原に展開。遼東を巡り、高句麗と闘争。騎馬民族といえば、5世紀以降であろう。 鮮卑と倭も関係深い。
鮮卑は、次第に漢族と融合、同化を図る。依然として鮮卑の子孫は「シボ族」として中国の少数民族として残る。
参照
「 シボ族の人たちは中国古代の北方の鮮卑人の子孫をもって自認し、当初は大興安嶺の東麓一帯で遊牧生活を送り、西暦4世紀前後に南の黄河流域まで移住して政権を作り上げたが、後に漢民族に同化された。嫩江、松花江、綽爾河流域に残った鮮卑の人たちは東北地方で生存し続けて、今日のシボ族となった
鮮卑のことは日本書紀には判りにくい。 鮮卑という言葉すらでてこない。
何故か?
邪馬台国の時代 2−3世紀 鮮卑+北方漢=狗邪系
3世紀末以降は、「夫餘」も融合 鮮卑+北方漢+夫餘=加羅系
4世紀後半から 応神大移動 加羅、コムナリ加耶、新羅等から大移動がある。
5世紀後半 雄略ー仁徳 騎馬文化最高、前方後円墳最大の時期
5世紀後半には騎馬文化最大
任那系 ---仁徳天皇--------夫餘+呉+倭
コムナリ加耶--応神、雄略天皇 漢+夫餘+呉
加羅系 --履中、反正----(鮮卑+漢+夫餘)
狗邪系も筑後磐井君を最後に滅亡、新たにやって来た新羅・加羅連合軍に敗れる。さらに、この加羅系は蘇我馬子を中心とする連合軍に敗れるし、鮮卑のことは日本歴史書には影は少ない。
漢族も純粋ではない。甘粛省天水に「伏義廟」を訪ねる。 天の河ができたところ、漢民族発祥の地、学説巷には多数。 ここでは、西方からやって来た遊牧民族説を取ろう。
春秋戦国時代は江南の国家が強大なころ、南方からの沿岸民族移動---我が国への稲作伝達もこの頃、もたらされたと言う。「呉族」と「漢族」は融合して、呉族は方言を残して「漢族」」に
「漢」族は西は敦煌、東は楽浪、南は海南島まで、漢帝国を広げた。 漢4群設置時期は、楽浪で東進した「漢族」と「東北民族」との融合。 倭国への渡来も漢の時代。
「魏晋南北朝隋唐」の時期 中原 南下してきた「鮮卑族」と「漢族」の民族大融合 -北魏-仏教伝来 さらに大融合を重ねて、「漢民族」ができる。