加耶の由来 インドの東北部、ガンジス河中流域 伽耶 ガヤである。
インド,ビハール州中西部,ガヤの南約6kmにブッダガヤ がある。 Buddah gaya Bodh gaya, Budda gaya
約2500年前、Gautama Siddhartha 仏陀は菩提樹の下で悟りを開いた、仏教の聖地である。
2500年前、印度に「伽耶」、まさに仏教誕生の聖地に「伽耶山」、「伽耶城」は登場する。 伽耶城が登場するのは、妙法蓮華経 如来寿量品第十六で、「伽耶城」がでてくる。
妙法連華経 これは原文 まず「伽耶城」!!!が出てくる。
-妙法蓮華經如來壽量品第十六 爾時佛告諸菩薩及一切大衆諸善男子。汝 等當信解如來誠諦之語。復告大衆。汝等 當信解如來誠諦之語。又復告諸大衆。汝 等當信解如來誠諦之語。是時菩薩大衆。 彌勒爲首合掌白佛言。世尊。唯願説之。 我等當信受佛語。如是三白已。復言唯願 説之。我等當信受佛語。爾時世尊。知諸 菩薩三請不止。而告之言。汝等諦聽。如來 祕密神通之力。一切世間天人及阿修羅。皆 謂今釋迦牟尼佛出釋氏宮。去伽耶城不遠坐於道場。得阿耨多羅三藐三菩提-------------------
今ここにいる釈迦を、かつて釈迦族の王宮を飛び出して、伽耶城近くの菩提樹の下に坐って道を求め、無上の悟りを得た
おりしも、中国南部では、春秋戦国時代あたり、「呉」の国があった頃。
伽耶山 印度 budda gaya Buddah gaya ブッダガヤ
伽耶山 朝鮮半島中部
可也山 玄海灘 福岡県糸島 山の名前
加悦 日本海沿岸 丹後地方 京都府加悦町 町名
これらの「カヤ」は単なる偶然なのか?「加耶」のことを解き明かすに、
はるか昔 、印度----駕洛---朝鮮半島高霊---玄海灘--丹後
加耶、伽耶「カヤ」は仏教、印度と関係?????
伽耶の流れを組む集団は、AD1世紀頃、朝鮮半島南端に「駕洛国」を建国した。これが日本書紀が固執する「任那」の原点である。
4大聖地
「四大聖地」
ルンビニ(生誕地)Kapilavastu, India, just inside present-day Nepal
ブッダガヤ(成道の地)now Buddh Gaya in the state of Bihar
サールナート(初転法輪の地)ブッタが初めて説法をしたところSarnath
クシーナガラ(涅槃の地)Kusinagara, Nepal
三国遺事
朝鮮三国時代、新羅時代の仏教伝来と発展を記す。朝鮮での仏教を勉強するための基本と言われる。ここでも、「伽耶」は仏教がらみで現れる。
巻1
五伽耶とは? 国々の紹介で「五伽耶」と出てくる。
最初の五伽耶には、「金官」は入らず。
阿羅(一作耶)伽耶(今咸安)古寧伽耶(今咸寧)大伽耶(今高靈)星山伽耶(今京山玄)碧珍小伽耶(今固城)
太祖天福五年庚子改五伽耶名。一金官(為金海府)二古寧(為加利縣)三非大(今昌寧恐高靈之訛)餘二阿羅、星山(同前星山或作碧珍伽耶)
巻2には「駕洛國記」として、また出てくる。 最初の五伽耶には、「金官」は入らずなので、わざわざ、ここで「駕洛國記」として追加して話を載せる。
國稱大駕洛。又稱伽耶國 ここで北龜旨に天下る説話があり、後に「阿踰陀國」から王后がやってくる話が続く。「駕洛国記」では、最初から「六伽耶」
地理的には以下のような記述有り。黄山江は洛東江の支流で、この表現では洛東江本流域は入ってうないし、、もちろん河口も入っていないでは?
國稱大駕洛。又稱伽耶國。即六伽耶之一也。餘五人各歸為五伽耶主。東以黄山江。西南以[泳-永+蒼]海。西北以地理山。東北以伽耶山南而為國尾。
賀洛国は 呉系が列島から北上 初めて半島に国家を築いたところ。 もちろんこれは「呉+漢」の融合である。 当時は、北部九州では「伊都国」ができて、漢と通じたころでもある。 いずれも呉系の流れである。 いわゆる、「任那」
最初の五伽耶には、「金官」は入らず
と関連づけると、金官はこの賀洛の後代の名前 、
伽耶はどうなのか? 五伽耶とか言われるものは「倭」系である。
呉系ではない。だから倭系の五伽耶には賀洛は入らない。
この倭系と言っても、実は「狗邪」系で、よく知っている卑弥呼の系統である。
倭+鮮卑
倭のところでも書いたが、列島の倭は最終到達点、倭の原始は南海である。 渤海にいた倭は鮮卑系と融合して、南下、済州島へ、さらに半島南部へ。
当時は半島沿岸は呉系 さらに、この呉系は高句麗系とも融合。 だから鮮卑系はこの海路を行けず。済州島経路で南下する。
自此東 南行六百餘里。渡m16476伽河。南至阿踰陀國 (中印度境。)@ 阿踰陀國。周五千餘里。國大都城。周二十 餘里。穀稼豐盛。花菓繁茂。氣序和暢。風俗善 順。好營福。勤學藝。伽藍百有餘所。僧徒三 千餘人。大乘小乘。兼功習學。天祠十所。異 道寡少。大城中有故伽藍。是伐蘇畔度菩 薩(唐言世親。舊曰婆藪盤豆。譯曰天親。訛謬也。)數十年中。於此製作 大小乘諸異論。其側故基。是世親菩薩。爲 諸國王四方俊彦沙門婆羅門等。講義説法 堂也。@
駕洛国の言葉には、「伽耶」と直接むすびつかないが、
駕洛国の創始者、金首露の許皇后は、なんとインド「アユダ国」阿踰陀國(ayuda)から海路やって来た。首露王即位7年(西暦48年) だ。伝首露王妃のお墓は『三国遺事』の「駕洛国記」に記載される、建国神話に出て来る「亀旨峰」に隣あわせに有る。
一体、アユダ国はどのあたりか? 大唐西域記で探してみると、アユダ国は中インド、ガヤ(伽耶)の西、約400kmほど西にあった。 伽耶と同じガンジス河流域の肥沃な土地だ。
大唐西域記には、「農業は盛大で花、果物は繁盛、気候は温暖、風俗は善良」「伽藍は百余個所、僧徒は三千余人」とある。
平凡社 大唐西域記 地図より引用 アユダ国とガヤ国
古代呉とインド仏教の生まれた頃は近い!!!
仏教が中国に伝来したのは後漢あたりか、西暦紀元前後と言われ、すでに道教や儒教が成立して居た。この伝来は南周りの海洋民か? 西暦紀元前後と言えば「駕洛国」建国の時期と近い。
「伽耶」のあるガンジス河流域は肥沃な土地で、農業盛ん、手工業生産も進み、都市部の富豪等のパトロンが印度の戒律をも否定する革命的な仏教を支えた。「伽耶」は先進地域で、西はローマ、東は漢と海のシルクロードで結ばれていた。
どう伝わったか?
北の山岳、砂漠超え 路
南の海上路。 三国時代では「呉」の国
の2つのルートが考えられるが、元来、パミール高原、タクラマカン砂漠、を越えて伝わるなど、とても難題、紀元前後の時代では海の南経由であろう。その頃、雲南まで後漢は進出した。
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これは現代語訳 外部リンク
全訳 如来寿量品第十六
春秋(BC770--BC476)
戦国(BC475--BC221)
呉 大運河工事
越 海上交通国家
斎 漁業、塩
インド紹介 外部リンク
大唐西域記 外部リンク 京都大學人文科學研究所附属漢字情報研究センター
仏教誕生まで遡らないといけない。これは大事。『大唐西域記』は唐の僧玄奘三蔵が貞観3年(629)長安を発し、同19年(645)の帰国までに遊歴した西域、インドの仏教遺跡、風俗、生活などを記録。
ここにも「伽耶山」、「伽耶城」が登場する。
焉。便建伽藍。窮諸規矩。捨其邑戸。式修供 養。@ 戒賢伽藍西南。行四五十里。渡尼連禪河。 至伽耶城。甚險固。少居人。唯婆羅門。有 千餘家。大仙人祚胤也。王所不臣。衆咸宗 敬。城北三十餘里。有清泉。印度相傳謂之 聖水。凡有飮濯。罪垢消除。@ 城西南五六里。至伽耶山。溪谷杳冥。峰巖危 險。印度國俗。稱曰靈山。自昔君王。馭宇承 統。化洽遠人。徳隆前代。莫不登封而告 成功。山頂上有石m25561堵波。高百餘尺。無憂 王之所建也。靈鑒潛被。神光時燭。昔如來 於此演説寶雲等經。@ 伽耶山東南。有m25561堵波。迦葉波本生邑也。其 南有二m25561堵波。則伽耶迦葉波。捺地迦葉波 (舊曰那提迦葉。訛也。m17369諸迦葉。例無波字。略也。)事火之處。伽耶迦葉波 事火東。渡大河。至鉢羅笈菩提山(唐言前正覺山。 如來將證正覺。先登此山。故云前正覺也。)如來勤求六歳。未成正覺。 後捨苦行。示受乳糜。行自東北。遊目此 山。有懷幽寂。欲證正覺。自東北岡。登以 至頂。地既震動。山又傾搖。山神惶懼。告菩 薩曰。此山者。非成正覺之福地也。若止於 此。入金剛定。地當震陷。山亦傾覆。菩薩下 自西南。山半崖中。背巖面澗。有大石室。 菩薩即之。加趺坐焉。地又震動。山復傾搖。 時淨居天。空中唱曰。此非如來成正覺處。 自此西南十四五里。去苦行處不遠。有卑 鉢羅樹。下有金剛座。去來諸佛。咸於此座。 而成正覺。願當就彼。菩薩方起。室中龍曰。 --------
兎王本生譚
「月の中に、兎が餅つきをしているという」ことは、子供ながら教えられたものだ。確かに月を見ると、そのイメージがピッタリする。もちろん、月には兎は住まない。
この兎の話は、ぐんと古代、仏教の話に飛ぶ。 兎王本生譚 。大唐西域記から、引用
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帝釈天が老夫に化けて、狐、兔、猿に、「私の老衰も意にかけず、遠くへやってきた。今、腹が減って、何か食べ物を」と頼む。 狐は川辺で新鮮な鯉を、猿は木に登り、花や果物を集める。 ただ兔はてぶらで。 それに対して老夫は「あなた方はまだ本当に仲良くは無い。 狐と猿は心使いをしているが、ただ兔だけは手ぶらで帰ってきた。」
兔は自分に対する悪口を聞くと、薪を集めてもらい、火をつける。 そこで、兔は、「私は能無く、探すにもできません。 どうか私の小さな体を、一度の食事に。」といい終わるや、火に飛び込み死んでしまう。 老父は帝釈天に戻り、薪を取り、亡骸を収容して、嘆息される。
「一途に思いつめたものか。 その心に打たれた。 この事跡をほろぼさないよう、兔を月の輪の中に残して、後世に伝えよう」 それから兔は月にいると、。
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ところで、印度とは唐で「月」の意味という。 月にはいろんな呼称があるが、印度はそのうちの一つ。 「その地が聖賢が凡人を導き、物をおさめるあり方は、丁度、月が天下を照らすようなもの、この意味から印度という」
この月の話で思い出すは、記紀の神話にある「月読命」である。 天照大神やスサノオ命と較べて、同じ神ながら、記紀では、軽くあしらわれている。
加耶古代史観
では
月読 −−倭先住民(仁徳、雄略系)
だが、半島からやって来た天照系(加羅)に滅ぼされる)
天照 月読と同根であるが、別れてから、半島で変質後、列島へ(物部連)
スサノオ 月読と同根だが、倭で加羅系に滅ぼされた後、
半島で新羅と混交--新羅勢力の一つとして紀へ移住
ということで、任那系(駕洛国)が「月」と関係あるならば、やはり、この任那系の源流は印度になるか。
韓国に中国の前秦から仏教がはじめて伝わったのが、4世紀の後半である高句麗小水林王(ソスリムワン)2年【372年】
丁度、日本書紀神功の「加羅七国平定」(369年)の時期に相当する。 中国で(439-534) 北魏になる前から、半島南部では加羅が勢力を伸ばす。
仏教伝来
高句麗 372年
百済 384年
これらの伝達は草原ルート?ガンダーラからパミール高原を越えて、北方のシルクロードで仏教は伝達。 漢帝国滅亡後、4世紀以降は、しばらくは漢民族以外の北方鮮卑族が主力。
元来、鮮卑族は、
粛慎+匈奴=東湖
語源的にいえば、ツングース系 で、北方の粛慎と、西方からの匈奴との融合過程でできる。
敦煌初期(-421-580)では鮮卑などの北方民族が敦煌を作り始める。
366年 沙門楽尊 莫高窟草創 中国最初の仏教石窟
(420-439) 北涼 東晋十六国
(439-534) 北魏 鮮卑拓跋氏 -南は南宋、勢いは北が強盛
(535-557) 西魏 北魏 東西に分裂
(557-580) 北周 宇文氏 、
私の敦煌見聞録から、
敦煌の歴史
を参照下さい。
河西廻廊を通り、黄河流域に、
炳霊寺石窟-------蘭州 この石窟の創建は5世紀で、五胡十六国の政権の一つ、西秦時代に開さくされた
インド仏教の影響
北魏鮮卑拓跋氏
華北 雲崗 ----飛鳥文化の源流??大同(当時は平城)
洛陽 龍門石窟----3割 北魏、 6割、唐の時代、
を開墾する。
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