楽浪、帯方は南北の融合地域 加耶
楽浪(らくろう) 南北の融合地域
半島地図
日本書紀から導かれた結論
、第1 -- 夫餘、 南方呉、(倭)
第2、 --北方漢、 夫餘、 南方呉---
第3 -北方漢、夫餘
第4、 夫餘、南方呉、
第5 夫餘
第6 -鮮卑、北方漢 夫餘
このうち、第2、第3の「百済」は漢と夫余(粛慎)の融合から始まる。
一体、これらがどこで融合したのかが問題である。 一つの答えが、「楽浪」である。 楽浪は漢だけとか、朝鮮だけとかでなく、「漢+夫余」の融合地域である。
楽浪郡でどのあたりか? ’(外部リンク 楽浪郡、帯方郡)
楽浪郡は今の平壌あたりを中心とする大同江流域(テドン江)で、古代からの遺跡も多く、古朝鮮檀君王倹神話の地とも言われる。
融合はいつから始まったか?
「夫餘+南方呉+倭」 から考えれば、BC2500年頃、夫余は「粛清」とすれば、長白山系を越えて、大同江流域まで進出、「粛慎と呉」の融合、「古朝鮮」があったといえる。漢が朝鮮を支配する以前
秦時代、の地図
歴史通説では、、、
朝鮮最古の王朝 「檀君王倹」
「殷」滅亡時、東国に逃れた殷の王族の箕子(きし)が「箕氏朝鮮」を建国
燕の武将「衛満」が朝鮮に入って「箕子朝鮮」に仕え、前190年頃にその国を奪って建国
「衛氏朝鮮」は、前漢の武帝が命じた遠征によって前108年に滅ぼされ、武帝は、朝鮮半島に楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の直轄領4郡を設置した
帯方郡は?
公孫
氏は3世紀の初頭、楽浪郡の南部の荒れ地を分離してここに「帯方郡」を置いた。魏の時代になって、倭女王卑弥呼は「帯方」を通じて「魏」と接触した。
高句麗の誕生
高句麗は、漢が朝鮮四郡を設置する前から存在する。 高句麗のもとは長白山系の北側、夫余の地であるが、長白山系の分水嶺を乗り越えることにより、鴨緑江流域経由、南へ進出した。その過程で融合したのが「南方呉」で、楽浪は融合地域。
漢の朝鮮四郡支配としても、北からの高句麗の影響もあり、「楽浪郡」のみ定かで、後の三郡は正確な場所さえ判らない。
夫餘+南方呉+倭=高麗
313年、高句麗は楽浪、帯方郡を奪取して、肥沃な平原に進出、漢民族の朝鮮半島支配を終了させた。肥沃な平野、物産が豊富な大同江流域である。高句麗の首都は鴨緑江流域 集安
この頃は、丁度、倭国では、「仁徳天皇」の時代がはじまる。 日本書紀仁徳時代に、はや、高句麗の鉄の矛が登場する。
ところが、375年、南の百済近肖古王が、ピョンヤンへ進撃、高句麗王故国原王を戦死させ、漢城へ遷都。 楽浪のとりあいは、まずは百済優位に進む。 高句麗王談徳になって、反撃開始。
百済、誕生
第2、 --北方漢+夫餘+南方呉---プル百済
第3 - 北方漢+夫餘----------オンジョ百済--後に、南夫余と国号を変更
百済には二つあり
オンジョ百済、
プル百済
漢が朝鮮四郡を支配した約400年の間に、百済誕生の基礎ができた。北方漢+夫餘
漢と夫余と融合したのが、百済の基本で、「オンジョ百済」というが、さらに、それに南方呉が融合したのが「沸流百済」である。百済の歴史は対外的には高句麗や新羅との闘争であるが、内部的には「オンジョ百済」と「プル百済」との内部抗争である。 詳細は百済二国論を参照されたい。
百済とは、「皆で海を渡る」という意味で、それに値するのは、「南方呉」のある「プル百済」である。オンジョ百済は本来、「百済」と治らず、例えば「百残」であったはず。 オンジョ百済はプル百済を滅ぼした後、のちには南夫余と国号を変えた。
最初の定着地域は
オンジョ百済 漢江流域
プル百済 錦江流域----応神、雄略天皇に繋がる、倭国建国集団
プル百済を始めとして、半島南部一体まで定着していくのは「加耶」である。これこそ加耶の原点であるが、「加耶」の歴史が抹殺されるとともに、プル百済の歴史も抹殺された。 結果、オンジョ百済が、ただひとつ百済の正史となった。
新羅 倭 誕生
新羅の誕生神話でも明らかになるが、新羅の出自は3箇所、 最初の一つが楽浪である。ここで、「鮮卑、北方漢」なる融合があるが、日本書紀はこれを記載していない。この「鮮卑、北方漢」集団は、例の卑弥呼と同様である。
倭も一体、どこで誕生したか?
日本書紀から導かれた結論
、第1 -- 夫餘、 南方呉、(倭)
第2、 --北方漢、 夫餘、 南方呉---
第3 -北方漢、夫餘
第4、 夫餘、南方呉、
第5 夫餘
第6 -鮮卑、北方漢 夫餘
「倭」は、元始は海南島あたりだが、沿岸沿いに「渤海周辺」へ、さらに半島沿いに南下した「海の民」
新羅、倭の最初の地は? 楽浪ではなく、「遼東」 。 倭は遼東にもいたのである。例の広開土王石碑に出てくる倭は、遼東にいた倭、即ち「後燕」である。
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