「継体加耶」は最後の任那加耶

 倭国では、半島南部(任那)から先に倭へ移住した「コムナリ加耶系」の「雄略、平群」が、新羅・加羅勢力(大伴・物部)によって討伐される。その後を埋めるのが「継体」の時代である。
    

継体加耶=南方呉(倭)+沸流プル百済




 加耶
は終わりかと思われたが、半島南(任那)からが倭へ移住していた継体「トムタレ加耶」が、倭国での加耶体制をなんとかつなぐ。「継体」の意味は「加耶」の体制を「継ぐ」である。

 日本書紀の記述を分析すると、仲哀5世孫 倭彦王を担ごうとしたのは大伴金村大連のみ。
一方、応神5世、男大ドノ王では、大伴金村大連、物部アラ鹿火大連、許勢男人大臣の三者とも一致する。
ここで、勢力分布で言えば、
    大伴 --新羅系
    物部---加羅系
    巨勢---加耶系-(継体と同じく半島南部にいた集団、竹内宿禰のあと、先住加耶)

新羅系は当初、既に倭国では力のない倭先住系の残党の流れを担ごうとしたが、うまくいかず。結局、当時、加耶勢力の主流である物部や継体系の「加耶」を建てざるを得なかった。

「百済に賜う」は潤色

 任那4県(オコシタリ、アロシタリ、サダ、ムロ)割譲とかは?コモン、タサも百済(コムナリ加耶)へ賜うとは?

 これは本当に「百済に賜う」なのか?実は、南下してきた百済が「トムタレ加耶」の領域を侵す話。新羅・加羅連合が「雄略・平群」を討伐したあと、加耶時代を継承するため「継体」は倭へ行くが、その空白をねらって百済が南下。また倭国へ渡る「津」も奪取する。
 
 ここの百済も実は、新羅・百済同盟があって、新羅が任那を攻めるのを黙認したし、自分自身も任那の領地を狙っていた。「百済に賜う」となるのは、ここの百済勢力がさらに南下して、日本国建国のメンバの一人になるので、先住加耶を自ら侵略した事実を隠蔽して、「賜う」の形をとっただけである。領土を賜うとか、そんな生易しい時代ではなく、取り合いの世界だった。
としても、後代、百済系(中でも北方百済系移民は、日本中枢を握る)

任那の領土は、洛東江流域だけに狭まる。

筑紫君磐井 倭加耶の抗戦 

 継体は何故、大和へ入るに時間がかかったか? 20年目にして初めてヤマトへ入った。

 一つは筑紫君磐井。先住加耶として築肥豊を支配していたから、まず、継体が倭へ移住してくるのを阻止した。 確かに、新羅・加羅勢力は近畿では「雄略・平群」を討伐したが、半島との交通権を握る九州はまだ支配していない。

ルートとしては北方、琵琶湖ルート。
 倭や任那の加耶はどうしたか?530年頃には、 倭では九州筑紫君磐井が新羅・加羅勢力(大伴・物部)」に討伐され、また半島南部(任那)では、先住加耶系の金官国(南加羅)が新羅に併合され、半島と筑紫の交通の要所はいずれも新羅勢力(大伴)が掴む。

ここで、さらに倭国の任那での領土は狭まり、洛東江中流域だけになる。

 筑紫君磐井は、九州邪馬台国の最後。すでに大和の先住加耶は支配者層から外されて、新羅勢力に従属。 倭で最後まで新羅と戦ったのは、真っ先に任那から倭へ移住した「君」の集団で、九州筑紫君磐井である。この「君」と南加羅が任那加耶。だが、両者とも

 日本書紀では、磐井は、「任那救援」の軍をさえぎり、新羅から賄賂を受けとったかのように記載されているが、まったくの捏造。 (別途 詳細) 磐井を討伐した「物部」こそ、先住加耶を裏切り、新羅側に荷担した張本人である。

南加羅滅ぶ? 半島洛東江河口 任那加耶 終焉 
  

 南加羅の滅んだ時期は、日本書紀では明らかにされていない。何故か?
先住加耶系の金官国が新羅に併合されるのだが、日本書紀は具体的でない。具体的に書くと、任那を滅ぼしたのが、実は新羅・加羅だと判るから。 また継体自身、救援に行かなかったことがばれるからか?

 わけても、「加羅」は本来、任那加耶の一員でありながら、明らかに任那から離反して、敵国の新羅に荷担、任那滅亡に協力した。任那と加羅は別の国、加羅は反任那だった。だが、この加羅も最後は、新羅に叛いて殲滅される。加耶を裏切った罰であろうか。また倭国へ移住した加羅勢力「物部」もまた殲滅される。

もうひとつ、継体勢力である。彼らも同じ「加耶」でありながら、「加羅」よりの姿勢で、任那救援には行かず。「行かない」理由なのに、全て「磐井」に「救援に行けない」理由をかぶせた。

継体末期 の天皇、太子、皇子ともに崩御? 任那加耶の最後

継体の末期、日本書紀の注釈には、天皇、太子、皇子とも崩御の記事がある。百済本記からとされる。これは何を意味するか?
  ヒントは、? 
      継体  大伴金村大連、許勢男人大臣 、物部アラ鹿火大連
      安閑  大伴金村大連、物部アラ鹿火大連
      宣化  大伴金村大連、物部アラ鹿火大連、蘇我稲目宿禰大臣、安倍大麻呂臣大夫

 許勢男人大臣は継体になって登場、継体20年亡くなっているのだが、許勢男人は半島西南部にいた任那加耶であり、これで、半島任那加耶系はいなくなる。 「加耶系」は終焉する。継体の末期、日本書紀の注釈には、天皇、太子、皇子とも崩御の記事、これは原因は不明だとしても「継体」加耶体制の終焉を暗示、新羅+加羅(勢力による策動かも。

       継体  新羅、加耶、加羅 
       安閑  新羅、加羅
       宣化  新羅、加羅、高句麗

このあたり、(新羅系+加羅系)が支配続ける。 実質は「加羅系」である。
「 宣化」で、蘇我、安倍が登場して来る。 

この蘇我は、竹内、平群の流れを組む。この流れはまだ解析不十分ではあるが、加耶系とくっつき、離れず、古代から寄り添っている高句麗系加耶人(加耶に帰化した高句麗人)-安倍も活躍はもっと後代になるが、同様の高句麗系加耶。


倭国では 物部(加羅)と新来「高句麗」系との闘争


   次の欽明は? 
       欽明=南方呉(倭)+沸流プル百済+鮮卑

さらに、 欽明以降は 「高句麗」が追加される。 欽明は半島状勢が殆どだが、最後に高句麗の漂着の話があり、高句麗として具体的な現れ。
  
   
南方呉(倭)+沸流プル百済+鮮卑+高句麗


欽明にからむのは、次の三系統


⇒欽明+宣化系→敏達→押坂彦人大兄皇子→舒明、皇極、(天智、持統
⇒欽明+(蘇我堅塩媛)→用明、推古   
               用明+穴穂部間人皇女→ウマヤド皇子→山背大兄皇子
⇒欽明+(蘇我小姉媛)→崇峻  

  物部(加羅系)は強盛になり、敏達(572年)で最高となる。 新羅勢力は半島へ展開、倭国は加羅に任せる形になる。 一方、宣化以来、倭国の中心に近づいた高句麗系加耶は勢力を増強。 
   用明以降

    蘇我⇒高句麗系加耶
    物部⇒加羅

の抗争が激化して、勢力は反転する。
  
欽明 大伴金村大連 物部尾興大連 蘇我稲目宿禰大臣
敏達 物部弓削守屋大連 蘇我馬子宿禰大臣
用明 蘇我馬子宿禰大臣 物部弓削守屋大連
崇峻 蘇我馬子宿禰大臣
推古

  

  半島では、562年、高霊加羅が新羅によって討伐される。 
倭では、崇峻即位前期(587年)高句麗系加耶人 「蘇我」を中心とした連合軍が、加羅系物部を殲滅、長く続いた「物部(加羅系)」は終焉する。

物部は変節しているものの、本来は「加耶」系であり、「物部」の殲滅で「加耶体制」は殆ど終る。

崇峻天皇暗殺

欽明の流れを組むのは以下の三系統



⇒欽明
+宣化系→敏達→押坂彦人大兄皇子→舒明、皇極、(天智、持統
⇒欽明+(蘇我堅塩媛)→用明、推古   
               用明+穴穂部間人皇女→ウマヤド皇子→山背大兄皇子
欽明+(蘇我小姉媛)→崇峻 

まずは 崇峻が暗殺(592年)、残る、2系統は後代、順次、敗北抹殺される。

587年の物部討伐についで、592年の蘇我馬子のクーデタにより、ここに高句麗系加耶の「蘇我」倭国が完成する。古事記は、蘇我の倭国完成、すなわち、「推古」で完結する。



加耶古代史観へ