朝鮮、加耶の建国神話


日本書紀から割り出した加耶古代史観の分析では

       第一   高麗 ------    粛慎+ 南方呉+南方倭
       第ニ   百済(プル百済)---漢+粛慎+南方呉
       第三   百済(オンジュ百済)漢+粛慎
       第四、  新羅------------粛慎+南方呉、
       第五   新羅 -----------粛慎
       第六   加羅   -------鮮卑+漢+粛慎 
朝鮮の歴史書との比較検討をしてみるが、かなりの確率でこの公式はあっている。
基本は南北融合 
        ここで第一に書いている族が主体
             北方---  粛慎 、漢、鮮卑
             南方---  呉、倭

三国史記での高句麗誕生神話



 三国史記 ではどうか? ここでは、高句麗誕生の神話を紹介しよう。ここでは、南北融合の姿が書かれている。
高句麗は「天帝の子」と長白山の南にいた水神の子が出会い、高句麗の始祖が生まれるとい伝説だ。
(1)
   扶餘王解夫婁 は子が無く、山川を祭り、子供を願ったところ、あるところ、馬が大きな石をみて涙を流している。 王は怪しんで、使いを送る。 その石を転がすと、小兒がいて金色蛙形をしていた。 連れて帰り、養って太子とする。 金蛙(キムワ)と名付けられた。

阿蘭弗は王にすすめて東海之濱の方に 移都於彼 國號を東扶餘 とする。そこに、
自稱天帝子という「解募漱(ヘモス)」が都にやってきた。 解夫婁薨後、金蛙が嗣位する。 
(2)
神話では太白山の南、「渤水」で、水神の娘「柳花」と出会う。
キムワは長白山の南で、「柳花」,つまり水神河伯(ハペク)の長女)と出会う。キムワは柳花を夫余に連れて帰る。実は、柳花は天帝の子、「解慕漱ヘモス」の子を身ごもっていたのだ。



月は満ちて、生まれてきたのは それは大きな卵だった。金蛙王はこれを怪しみ捨てる。そこで 破殼して出てきたのが「朱蒙」 、つまり高句麗の始祖となる「チュモン」の誕生だ。

 金蛙王には7人の子供がいたが、其長子帶素が、「朱蒙」を排除するよう要請したが、王は聞かず。 母は朱蒙に災難を避けるため、南下を進める。 チュモンは追われるごとく夫余から逃げて南下する。

  天帝 の子---こちらは、天孫降臨で北方系である。
  水神の子---太白山の南であるから、分水嶺を越えたところ、南からの流れを        暗示し、卵生神話だから南方系である。
このチュモン誕生はまさしく、南北融合の象徴であり、日本書紀の高麗とも一致する。
加耶古代史観では
   高麗=粛慎+南方呉+南方倭
  北方が粛慎、南方が南方呉である。

粛慎とは?? 

  まず、北方の系図、「粛慎」とはどこかな?  中国歴史地図によると
粛慎は「商」時代からあるのだ。なんとBC16世紀からBC11世紀の頃だ。
粛慎は秦、西漢の時代あたりまであり、東漢の時代になると融合の結果、民族としては亡くなる。

ここで何故?粛慎なのか?というと、上の伝説にもあったように、天帝の子がやってくるのは東夫余に遷都してからなのだ。夫余の東方には粛慎がある。
 夫余が登場するのは「西漢」の頃の地図で確認してみよう。









この粛慎は日本書紀にも出てくる。
日本書紀では「みしはせのくに」と呼んでいる。こんな時期には粛慎の国はとっくにないのだが、日本書紀は往年の国を暗示するかのようだ。

斉明天皇4年 

是歳(ことし)、越国守(こしのくにのかみ)阿倍引田臣(あへのひきたのおみ)比羅夫(ひらぶ)、粛慎(みしはせのくに)を討ちて、生羆(しくま)二つ・羆皮(しくまのかは)七十枚献(たてまつ

斉明天皇6年3月
 三月に、阿倍臣を遣して、船師(ふないくさ)二百艘を率て、粛慎(みしはせのくに)を伐たしむ。阿倍臣、陸奥(みちのく)の蝦夷を以て、己が船に乗せて、大河の測(ほとり)に到る。 大河とは黒竜江(アムール川)か?
地図参照「中国春秋時代」

長白山系




古朝鮮の神話に出て来る天孫降臨の地は「太伯山」の神檀樹」。
「太伯山」は「長白山」または、「白頭山」で、現在の中国と北朝鮮の境にある標高2744mの高山。 朝鮮民族の象徴的な存在。 全ての源。

 高麗朝(1280年代)に書かれた三国遺事にこの神話が書かれている。

天帝桓因ファンインの子、桓雄ファヌンが、太伯山の神檀樹に天降り (白頭山?)、洞窟の熊--熊女と結婚---檀君ワンコムを生む。 平壌に都、国号を朝鮮(チョソン)とする。--時に、BC2333年 アサダルに建国

三国史記と比べると、天帝の子は? 
三国史記では中国東北部の平原に現れるが、古朝鮮の神話では「長白山」の山頂になる。地元の熊との融合であり、南北融合の色彩は薄い。


高句麗の誕生

大事なことやけど、
高句麗は「秦」の時代から発生、即ち、漢の朝鮮進出以前

百済とか新羅、加羅は漢の朝鮮進出以降である。 

 「長白山」は朝鮮民族の象徴とか。長白山から南へは鴨緑江、北へは松花江、東は牡丹江と水は流れる。う。 柳花の子、朱蒙(チュモン)は、さらに南下、卒本州(チョルボンジュウ)の沸流水(プルス)に高句麗を建国(BC37年)する。今の
鴨緑江の支流、「坤川」、の「桓仁」という地だ。
高句麗の誕生は漢の中、高句麗県として誕生する。

鴨緑江流域には、高句麗の2番目の首都「集安」がある。、AD4年に遷都、首都がピョンヤンに遷都(427年)するまで、約400年間首都であった。

 高句麗は美川王(300年-331年)の時、313年、楽浪郡、帯方郡へ進出。 
さらに広開土王(391年ー412年)の時には高句麗領土拡張。次の長寿王(412-491年)の時、平壌に遷都(427年



長白山系地図





衛氏朝鮮から漢の朝鮮四郡 

秦時代、の地図 (BC221-207)⇒地図 これを見ると、遼東はまだ「漢」が獲り、朝鮮は鴨緑江河口から以南の地域 、
高句麗は「秦」の時代から発生、即ち、漢の朝鮮進出以前

百済とか新羅、加羅は漢の朝鮮進出以降である。 
高句麗は「秦」の時代から発生、即ち、漢の朝鮮進出以前


百済とか新羅、加羅は漢の朝鮮進出以降である。 

衛氏朝鮮(ウイシチョソン)--末期、 衛満(ウイマン)が箕準(キジュン)王から王位剥奪、  衛満は「燕人」かもしくは古朝鮮人系燕人か不明である。 衛氏朝鮮の領域は、大同江流域。燕は渤海あたりにあり、沿岸沿いに南下。 


衛氏朝鮮



  BC108年 漢 武帝は 衛氏朝鮮を滅ぼし、この地に、「漢四郡」を設置した。
    漢四郡? 楽浪(ナンナン)・臨屯(イムドン)・玄?(ヒョンド)・真番(チンボン)  楽浪郡は420年余り続く。



前漢(西漢)  (( BC202--AD8) 漢王劉邦が衛氏朝鮮楚王項羽を破り、即帝位
   ( AD9-23 新、AD23--25 漢) 


後漢 (東漢) AD25--220  東漢光武帝即帝位

高句麗は「秦」の時代から発生、即ち、漢の朝鮮進出以前

百済とか新羅、加羅は漢の朝鮮進出以降である。 

この漢の支配下で百済、新羅の源流ができる。 漢の支配が弱まったあと、
313年、高句麗は美川王(300年-331年)の時、楽浪郡、帯方郡へ進出。 
さらに広開土王(391年ー412年)の時には高句麗領土拡張。次の長寿王(412-491年)の時、平壌に遷都(427年)

百済

百済はどうか?百済も高句麗と同じ夫餘系で、同様に南下集団といわれるが、高句麗とちがって、西方からの「漢」が主体である。 出現も漢の朝鮮四郡以降である。 鮮卑集団が中原を掴む頃、漢の一部は東へ、北からの粛慎系と融合

 加耶古代史観では百済二国論を展開展開している。

  柳花の子、朱蒙(チュモン)は、さらに南下、卒本州(チョルボンジュウ)の沸流水(プルス)に高句麗を建国(BC37年)する。高朱蒙には東プヨで生まれた 長子瑠璃がいて、高句麗を継ぐ。沸流で生まれた沸流(プル)と温祚(オンジュ)兄弟は さらに南下  漢城 尉礼城(ウイレソン)に落ち着く。 

桓仁から南下したとして、百済の最初の都はどこか?

漢山まで来たとき、兄沸流( プル)は海岸の方に住まいすることを希望して、民を分けて海へ向かう。 一方、弟温祚」(オンジュ)は河南尉礼城に都をおく。十臣が補佐、国号を「十済」とする。時に、漢成帝の頃、沸流( プル)の行った海岸地帯は湿地帯で住むに適さず。尉礼城に帰ると、そこ都はは安泰、悔いて死ぬ。臣民は尉礼に戻る。 百姓も喜んで従い、国号を「百済」とする。

漢の中で誕生したことならば、百済の最初の都は楽浪郡の大同江流域かな?
一方、漢江流域とすると、漢を飛び出て、楽浪郡を通過してさらに南進したことになる。 

後漢の頃  公孫氏 遼東  238年まで   燕王と称したことも。「燕」というからには鮮卑族の血が流れるか? 三国時代、魏が半島を南進、公孫氏は魏と対決。同じ鮮卑だが?

    東部鮮卑ーー燕
    タクバツ鮮卑-魏


楽浪郡は魏の中、帯方郡はまだ未開地だったが、開拓される。高句麗が南下して楽浪郡を獲るのは313年、、オンジュ百済はこの頃には漢江流域に定着か?

ここで、高句麗r、百済、コムナリ加耶の3っこの分岐がある。

  兄 プル 海辺で建国失敗 自殺----- 本当に自殺なのか? 
  弟 オンジュ 山の方で 百済建国  時にBC18年--(BC18年ーAD28年)
            百済滅亡時は 「南夫余」の国号で。

百済2国論



加耶古代史観あkらの分析では
        第ニ   百済(プル百済)---漢+粛慎+南方呉
        第三   百済(オンジュ百済)漢+粛慎



(2)
プルは死んだことにはなっているが、実は、さらに南下して
    
百済(プル百済)---漢+粛慎+南方呉
の組み合わせで錦江流域にすみついた。第三   百済(オンジュ百済)漢+粛慎は漢江流域に。
475年、雄略天皇はコムナリを百済に与えて国を救い起こすとある。このコムナリがプル百済である。
加耶古代史観ではコムナリ加耶と呼んでいる。

 百済が本格的に領土拡張に動く時期は近肖古王の時代(346年--375年)、
375年には百済は平壌を獲る。

    加羅、新羅、倭は建国神話は

ここでは「天孫降臨」--北方陸
      「馬」  -----北方陸
     「卵生」 -----南方陸
     「海」   ----南方海
    

駕洛 カラク 


  天降った金の櫃のなかに6個金の卵、そのうち最初に孵ったのが金首露(AD42-199年) 天孫降臨と卵生神話が同時に起こる。つまり、北方系と南方系が同時期融合。 インドからの奥さんが来る。 かなり国際的
ただ、この地図では弁韓の所だが、「賀洛」とかの国名はない。また新羅にしても、辰韓である。
日本書紀から見れば
 賀洛は任那と表現している。 賀洛国の最後は532年?、賀洛国は約500年間続くのだが、

 駕洛 カラク
 金首露(キムスロ) 亀旨峰 (  漢 建武18年(AD42年)
 天から金の箱  6個の黄金の卵 卵が孵り、最初 金首露が駕洛国の始祖、、他の5人は他の加耶国になる。 これは北方系の天孫降臨+南方系卵生神話 合体であzる。

新羅のルーツ

                                 
新羅は三種類ルーツがあるようだ。


赫居世(朴氏)(BC57--AD4)、馬が出てきて、紫の卵から孵る
(BC57年)。この新羅初期? 、「ソラボル」  狗邪系(鮮卑+北方漢+倭) の発生か? 馬は鮮卑、卵は南方倭かな?

昔氏   脱解 (AD57--80年)
狗邪系(鮮卑+北方漢+倭
女王は大きな卵を産む。 人みな怪しんで海に棄てる。 狗邪系は半島海岸を経由して南部へ流れて行く。海上路があるので、渤海から半島西部沿岸を通り、南岸へ流れていく。

(金氏) 金閼智キムアルチは天下った金の櫃から出てくる。天孫降臨であるが、卵生ではないので北方のみ、陸路のみである。ここは3世紀後半、新羅が国力を増してくるのは奈勿王(356-402年)以降である。
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