日本書紀での応神、雄略の矛盾
百済 皆で海を渡る
武寧王 誕生の島
武寧王 誰の子供?
昆支は?
慰礼系とコムナリ系の闘争
東城王は何故殺されたか?
武寧王 南へ
武烈の残虐描写の意味
updated 2001年12月30日 19:10:55
コムナリとは「熊津」(「ウンジン」) 古代朝鮮語では「コムナリ」と呼ばれた。 コムは熊、ナリは「津」。 ウンジン「熊津」、加耶古代史観からの解釈
[ナリ」とは、例えば、「西成」(ニシナリ)と同じ使い方、「西の津」である。西成は上町台地からみて、西の津、東成は東の津、古代朝鮮語は現在でも生きている。
疑問点
百済の字 海を渡るの意味なのに、北方系騎馬民族では?
応神時代
高句麗との戦いの記載が無い。 高句麗からの攻撃で漢江以北を失うのに。
倭国との関係ばかり〔実は加羅との関係)
百済国の王位継承に関与、辰斯王を暗殺(392)、また人質の腆支王を国へ帰し、王とする。(405)
百済と倭国の同盟 (実はコムナリと加羅との関係)
呉国との交流
雄略時代
武寧王の誕生 誰の子? 加須利君もしくは蓋鹵王か
昆支 「加須利君もしくは蓋鹵王」の弟、昆支 帰国?
加須利君 「君」と書いて「キシ」と読む? 誰か?
百済記、百済新撰、三国史記百済紀と百済関連は三種類の記録 何故、何種?
呉国との交流 身狭村主青等 解説では造作とするが、、。
雄略、武烈の暴虐無残な描写? 同時期に、百済末多王も「暴虐無残」
特に、武烈の描写は残酷
雄略 記紀の記事の多さの割に、古墳は惨め、記紀の評価は極端に低
百済の字は「全て海をわたる」の意味らしい。 百済は高句麗から分岐とされるから、北方から流れとすると、この百済の字は当てはまらない。 建国伝説によれば、紀元前18年、高句麗系チュモンの息子「オンジュ」が南方にくだり、河南ウイレソン(慰礼城)に国を建てたという。 オンジュの弟、プルは海の方へ生き、自殺したとか?
この「全て海を渡る」とは、どんな背景で出来たのだろうか?
百済と書いて「ペクチェ」と読むが、海を渡ってきたものでないと辻褄が会わない。 この辺から百済二国論が出てくるのだが。 最後は「南夫余」で終るので、北方夫余系も確か。
さて、加耶古代史観から、この時の勢力分布は以下、
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北の百済=北方温祚オンジョ 百済
南の百済(コムナリ加耶)=北方沸流プル百済+南方呉系
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以降、百済関係は北と南の百済が闘争する歴史
韓半島 地図
武寧王(501-523)の時代は ?
日本書紀の雄略の最初に戻って、武寧王の誕生の物語をみてみよう。
武寧王は、日本書紀でも有名な「嶋君」である。 日本書紀によると、
雄略5年(461年) 百済の「加須利君カスリノキシ)が弟、 軍君(コニキシ)を倭国へ送る。 カ スリノキシの孕める婦とともに倭国へ。 途中、筑紫の各羅嶋(カカラノシマ)で児を生む。 百済人 は、この嶋を主嶋と呼ぶ。(ニリムセマ)嶋君の誕生、軍君は、その児を国に送り返す。 のちに 武寧王となる。
各羅嶋カカラ嶋はどこか?
九州加唐島 佐賀県東松浦郡鎮西町 --呼子から壱岐ヘのフェリーは加唐島と小川島の狭間を行く。考えれば、このコースは壱岐、対馬と「邪馬台国ルート」だ。
「カスリノキシ」は コムナリ加耶系 --任那系--倭先住加耶と通ずる。
加唐島のすぐ傍をフェりーは通る
ここで注意点 百済関連の古書で、各々、武寧王の誕生過程が異なるのは妙である。
(1)三国史記 百済本紀 では、武寧王(501--522)は、東城王の子とする。
(2)日本書紀の本文は「加須利君カスリノキシの子 」
(3)注釈として百済新撰より引用として「蓋鹵王の子」とある。
ここで武寧王の父として
東城王
加須利君
蓋鹵王
の三種がある。
百済本紀 東城王は「昆支」の子供、昆支は?「沸流プル百済」系
加須利君: 日本書紀だけの記述であるが、これは「沸流プル百済」系。歴史上は抹殺されている。
百済新選による「蓋鹵王」は北の百済で、(温祚オンジョ 百済)、
日本書紀には
雄略5年 百済の加須利君は弟昆支君を倭国へ派遣。 加須利君の孕める婦とともに倭へ。途中、筑紫の各羅嶋にて児を生む。 よってこの児は嶋君と言う。 約束どおり、この児を国へ返し、武寧王とする。
問題点
昆支は誰の弟か?
(1)百済の加須利君、その弟昆支君 -----沸流プル百済
(2)注釈には 百済新撰には 461年、蓋鹵王、弟昆支君を倭国へ派遣、 天王に仕えさせる。 よって兄王の好を治める。 王は、北の「慰礼城」 にいた蓋鹵王とある。 ----(温祚オンジョ 百済)、
(3)三国史記百済本紀には 武寧王は東城王の子、つまり昆支の孫としている。
475年 北方夫余系(百残)は高句麗によって滅ぼされる。 百済記によると「狛の大軍、来て、大城を攻めること七日七夜 王の城、陥落、 ついに慰礼を失う。 国王、大后、王子等 、皆敵の手に死ぬ」と在る。
百済を書いている書物には色々あるが、
百済記 -----
百済新撰
百済本紀
日本書紀
百済記
沸流プル百済の記録で、滅んだ百残の記録でもある。沸流プル百済は、475年以降、南下した温祚オンジョ 百済の残党と闘争、東城王で断絶する。もっとも、この系統は雄略として倭国で生き残る。日本書紀は百済記を主に参考にしている。
日本書紀
---475年以前は 沸流プル百済を主として記録。だから基本的に、温祚オンジョ 百済は記載しない。ただ、注釈として、百済記、百済新撰を引用している。もちろん、百済記、百済新選なる書物は韓半島には残っておらず、日本書紀の内部のみである。
百済新撰---
温祚オンジョ 百済の残党が、錦江流域のコムナリ百済を奪って、「百済」を継ぐ。 そして、475年以前の沸流プル百済の歴史を抹殺、温祚オンジョ 百済を中心として再編成した。
百済本紀 -
-三国史記での公式な記録で、新羅統一後、整合性を持たせてまとめる
日本書紀の記述
雄略21年 雄略は「もんす王〔文周王475--477))」のコムナリを与えて、その国を救い興す。
これは温祚オンジョ 百済の残党がコムナリ加耶を奪ったという事である。
温祚オンジョ 百済の残党は「文周王」「文斤王」と続くが、ここで途切れる。 つまり、475年から479年までコムナリ加耶で続いた温祚オンジョ 百済も一度断絶する。( この文周王は蓋鹵王の子とされるが、本当は蓋鹵王の母の弟らしい。)
沸流プル百済コムナリ加耶の実権を握るチャンス、 倭国にいた東城王を百済へ送る。 東城王は「昆支」の子供である。20年ばかり続く。 この時点では、雄略倭国からの支配が復活している。
501年、東城王は評判悪く、殺される。 当時、倭国でも、沸流プル百済系コムナリ加耶は同様に討伐されて無残。 半島、倭とも沸流プル百済、ならびに南方呉も断絶。
百残系や百済系も途切れた後、登場するのが「武寧王」
武寧王は、本来沸流プル百済系であるが、以降は、北方温祚オンジョ 百済(夫余系)で生き残る。
日本書紀では
雄略20年 高麗の王、百済を滅ぼす
雄略21年 雄略は〔文周王475--477))」のコムナリを与えて、その国を救い興す。ここで雄略はコムナリ加耶(南方呉系)
三国史記百済本紀によると、「文周王」は新羅へ救援を要請、新羅軍と一緒に帰るが、既に、間に合わず。 南へ逃げて、熊津を都として、百済王室を継ぐ。 翌々年、477年、暗殺される。
雄略23年 百済の文斤王(479) 亡くなる。 父、文周王が殺された年、すぐ継ぐが、479年、15歳で死ぬ。 雄略は、昆支王の五の子のなかの、「第二にあたる末多王を、その国の王とならせる。 いわゆる「東城王(479--501)」である。
雄略は、百済王を選ぶことが出来るほど倭国強大であることを示す。 東城王の時、新羅から王妃を受け入れる。 ただ、この末多王は、暴虐無道であり、
武烈4年 、最後は末多王は殺されてしまう。 そして「武寧王」が立つ。
東城王(沸流プル百済)は、北方夫余系沸流プル百済勢力により殺されるか?
熊津遷都後は、武寧王(501--523)のとき、安定。
次の聖王(523--554)の時、「サビ(」に遷都し、国号も「ナムプヨ〔南扶餘」と変えた。
475--479
北方系温祚オンジョ 百済系蓋鹵王 (455-475)は高句麗による殺される。 残党の 文周王(475-477)は南下して、熊津で百済を奪う。だが、それも短時間で暗殺される。 その子 -三斤王(477-479)は若くして継ぐが、すぐ死ぬ。
479--501 沸流プル百済の復活
次の東城王(479-501) 倭国から帰る。 しかし、国民の評判不評、殺される。
(501-523) 武寧王で安定。 沸流プル百済系だが、誕生とともに韓半島だから、韓の風土で育つ。 東城王は、倭国にいた昆支の子で、倭国から百済へ帰っても、国民の支持は得にくいか?
この501年は倭国ではどんな時代か? 同じように暴虐無残な武烈の時代になる。 日本書紀では 武烈(499-506) は暴虐な天皇に書かれる。 ここはそのまま信ずることは出来ない。
当時は「加羅加耶、新羅」が、コムナリ加耶から政権を奪う時期なので、奪った方は自己を正当化するからだ。
この時代に、コムナリ加耶の系統は、
倭国では武烈(499-506) -------- 南方呉系
百済では東城王(479-501)------- -沸流プル百済系
と同時期に途切れてしまう。
武寧王は、さらに南下して半島西南部にいた「トムタレ加耶」の土地に進出、奪う。(512年)。 「加耶」の地はさらに狭まり、532年、南加羅は新羅に併合される。
結局、半島ならびに倭とも、敗北した集団は残虐に書かれている。
勝利したのは、半島では温祚オンジョ 百済系
倭国では加羅、新羅系
武烈天皇の暴虐無残
それにしても、記述はむごい。
およそ諸の酷刑、自ら見て、国内、皆震える。
「平群真鳥大臣 専国をほしいままに、日本に王たらんと欲」 大伴大連により討伐される。
2年 孕める婦の腹を裂いて、その胎児を見る。
3年、人の指甲を抜いて、芋を掘らせる。
4年、人の頭の髪を抜いて、木に登らせて、木を切り人を落とす
半島でも末多王の暴虐 あり、国たち、武寧王立つ。
6年、麻那君
7年 人を樹に登らせて、射落とす
百済 斯我君
8年 女を裸にして、平板に座らせ、馬を引いて、交接させる。」
女の不浄をみてうるえる者は殺す、うるわざる者は奴隷に
昼夜、常に、酒におぼれる。
このように南方呉系「コムナリ加耶」の末路は無残に書かれている。