新羅加耶中心の日本書紀  


 三国史記は、新羅が半島を統一したことを言う歴史書であり、全て新羅中心であり、新羅の記事が最も多く、高句麗、百済と続く。 

  一方、日本書紀は壬申の乱で勝った天武天皇が「新羅加耶」で新羅系のため、新羅勢力の「日本国建国記録」となっている。神武も当然、新羅系の象徴である。
 
だがちょっと複雑。 勢力は新羅加耶中心のはずだが、朝鮮半島の国々のl記載の序列は「高麗、百済、新羅,、任那」の順番である。高麗「コマ」が序列第1である。新羅は案外低い。
天皇にかかる任那を滅ぼしたのは「新羅」であり、それに加担した「加羅」である。しかし、壬申の乱の勝利は新羅系であるため国の順序は錯綜している。

  天智や藤原鎌足にかかる百済は高麗についで2番め。日本書紀の出来上がるころは新羅勢力も長続きせず、百済系の復活の兆しがあるからだ。

     高麗(コマ)
     百済(クダラ)
     新羅(シラギ)
     任那(ミマナ)

任那ミマナ

 
 任那(ミマナ)については別項で詳しく書くが、半島では「加耶」と呼ばれる国。任那は日本書紀だけが言う国名で任那という地名とか国名は半島には実際ない。任那は天皇に関係が深いといいながらも序列は最後になっているのは不思議。

 実は日本書紀のいう「任那」は実際は「加羅」という国のことで天皇にかかる「任那」とは違うのだ。加羅は実を言うと「任那」」とは敵対関係にあり、新羅の尖兵となって活躍したところだ。 本当の天皇にかかる「任那」は第一に書いてある「高麗」なのだ。

新羅系中心の編纂の日本書紀では高麗と新羅が交錯している。また新羅べったりの加羅系が任那を詐称しているのだ。

もっとも任那の範囲は広い。加耶古代史観では任那の範囲を朝鮮半島の西南海岸から南部海岸、洛東江流域一体を言う。。

高麗「こま」が序列 第1

 また「高麗」を「コマ」と読ませるのも不思議。高麗という字自体は崇高なものだが、「コマ」はどちらかというと蔑称ではないか?実はこの「高麗」こそ日本書紀のいう天皇にかかる国なのだ。蘇我集団も「高麗加耶」であるが、その名前は「蝦夷」「入鹿」「馬子」とかどちらかというと「コマ」とおなじような名前の付け方である。

 通説では不思議と高句麗敵視説が多いが、日本書紀を読んでみれば高麗は決して敵ではない事がわかる。 前半は任那と新羅との争い、後半は百済、高句麗と 新羅との争いが中心で、新羅が敵対国である。 高麗と倭国は友好的である。

 また「南宋倭国伝」では、「高麗」、「任那」とか「加羅」の描写が出てくる。 一方、古事記では「倭国」の建国記録であり、天武新羅の万世一系を貫くが、肝心の天武天皇を記載せず、推古で完結する。高麗の意向が強い。 

中国南宋の人も、「高麗」と呼んでいるのは? この南宋は、はるか春秋戦国時代、「呉」という国があった。仁徳、応神、雄略天皇の時代は、「呉」、即ち、「南宋」や高麗と交流の記事がある。


高麗は神の国

高麗が日本書紀に具体的に出てくるのは、欽明末以降、敏達天皇の頃である。 さらに具体的に出てくるのは、孝徳、斉明天皇の時代である。
例えば、日本書紀、 孝徳 大化元年 、高麗、百済、新羅と使い。 巨勢徳太臣は、高麗の使いに対して、「 天皇の使わす使いと、高麗の神の子の遣わす使いと、今までは付き合いも短いが、将来は長くしたい。 温和な心をもって、今後とも往来すべし」とある。 ここで高麗は神の子となる。 

時に、「蘇我」が倒された時期の発言で、意味深長な発言。 孝徳天皇は任那加耶 いわゆる「高麗」系


粛慎粛慎日本先住民族論

加耶古代史観では 高麗の源は「 粛慎+南方呉+倭」である。  

粛慎日本先住民族論 


  この粛慎と呉の接点は? ここで、北からの粛慎、南からの呉が出会うことになる。
例えば、松花江上流を遡ると、「長白山系」になる。 

古朝鮮の神話に出て来る天孫降臨の地は「太伯山」の神檀樹」だが、「太伯山」は「長白山」または、「白頭山」で、現在の中国と北朝鮮の境にある標高2744mの高山。 朝鮮民族の象徴的な存在。 

  古代粛慎とは、後には「靺鞨マツカツ」や「渤海(パルヘ)」と呼ばれるところ。 現在の中国東北部の
 ロシア国境アムール川支流「ウスリー川流域」あたりである。このあたりは肥沃の土地で、作物の栽培にも最も適しているとか。

 古朝鮮の神話に登場するのは「虎」とか「熊」で、「粛慎」にピッタリである。檀君ワンコムの母は「
」である。 
地図参照「中国春秋時代」


「ツングース系」と言われるが、ツングース言語は日本語に良く似ているという説もあり。中国では、少数民族の「満族」はツングース系」、でも満族はマンダリンを話し、ツングース言語はロシア方面に限られて、存亡の危機に立たされている言語らしい。
研究者によると、この地方に最初に定住した民族は、旧アジア少数民族のツングース満州人であった。時期的には5~6,000年ほど前 。
     考えれば、この古代「粛慎」は、列島の縄文人にも通ず。 すなわち日本先住民族か? 後代、粛慎系が半島経由でやってきても、この両者の間では、そんなに極端な争いなく、共存したことだろう。 
日本書紀では「蝦夷」として出てくる集団。 蝦夷は、越から秋田、津軽、渡嶋と日本海側に。

それは彼らのルーツは同じ部分を含むことを知っていたからだ。

--参考2

粛慎靺鞨 北周りと南周りの邂逅

       粛慎靺鞨については、北回りと南周りで、朝鮮半島、倭国で融合 

(1)北周り
  太古、列島がまだ大陸と繋がっていたとき   「粛慎」は北から移住、いわゆる縄文人。 日本書紀では「蝦夷」とされ、最初に蝦夷討伐を持ってきているが、具体的な記事になるのは「斎明」あたり7世紀以降。 蝦夷とはどちらかというと、そう戦いもせず、混交していく。 


(2)南周り 
  大陸では、遠くは「粛清」からの流れも南下して、楽浪、列島で南北融合する。 だから、列島縄文人と、北方夫餘系は基本的に同一ルーツである。

櫻の木でも 南北融合

ヤマザクラとオオヤマザクラの分布

  オオヤマザクラ  沖縄と九州を除く日本列島から朝鮮半島、ウスリー川流域南部及びサハリン南部
  ヤマザクラ     東北地方南部以南の日本列島と朝鮮半島の南部
   互いの桜の分布図が参考になる。
   [ウスリー川はオホーツク海の流氷のふるさと・アムール川に流れ込んでいる川]

オオヤマザクラは花や葉がヤマザクラより大きいところから命名。 函館で見た桜は確かに「葉」は大きい。

ここで、オオヤマザクラとヤマザクラの分布図を重ねると、北からと南の合流は
その境界は二つ

  一つは(1) 朝鮮半島 中部 あたり。 
         楽浪、帯方あたりで、江南系の北上組と、プヨ系が南下、両者の接点になる。
      (2) 日本列島  関東北部から東北南部
      日本書紀の言う「蝦夷」との境に符合する。 通説による弥生人とj縄文人。となり、符合は一致

国立科学博物館
石川県林業試験場樹木公園

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