百済二国論(1)

  神功、応神  コムナリ加耶、加羅加耶

神功 (321--)

-------日本書紀------
 神功49年 369年 平定比自「?」 ・南加羅・「? 」国・安羅・多羅・卓淳・加羅
 神功55年 375年 百済肖古王薨
 神功56年 376年 百済王子貴須立為王
 神功62年 382年 新羅不朝 即年 遣襲津彦撃新羅
 神功64年 384年 百済国貴須王薨 王子枕流王立為王
 神功65年 385年 百済枕流王薨 王子阿花少 叔父辰斯奪立為王
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日本書紀での「百済」は南の百済 (コムナリ加耶沸流プル百済)のこと


仮説

  北の百済=温祚オンジョ 百済
  南の百済(コムナリ加耶)=沸流プル百済 
  加羅加耶=北方鮮卑系+倭 
河川流域でみれば、
    漢江(ハンガン)、----温祚オンジョ 百済
洛東江(ナクトンガン)、
錦江(クムガン)、---------沸流プル百済
蟾津江(ソムジンガン)、
栄山江(ヨンサンガン)の5大河川


 日本書紀を読んでみて不思議なのは「北の百済」の事件を記載せず、コムナリ加耶を「百済」と称して、記事を書いている点である。

  例えば、371年の近肖古王の平壌城攻撃等も日本書紀にはないのだ。書いているのは、「加羅加耶」の七国平定にからみ、半島南部の加羅とコムナリ百済の同盟を強調するばかりである。 北方の高句麗との闘争は日本書紀に記載が無い。

 つまり 「北の百済」と高句麗の闘争は直接には関係せず、歴史資料もなかったことを意味するか。

日本書紀では「神功時代(321--)」は辰斯王が王になる(385年)ところで終了している。以降は「北の百済」

 辰斯王を暗殺して、コムナリ加耶系の王、「阿花王」を建てるまでは北の百済が主導。

加耶諸国の成立

 日本書紀神功の時代は321年から始まる。これは私なりに,干支二運の繰り上げを考慮して年代を決定。百済関係の記事は369年、七国平定あたりから出てくる。(
日本書紀の編者は249年としている。)


加羅加耶は洛東江中流域まで進出、コムナリ加耶と加羅が共闘して新羅を攻める。いわゆる、日本書紀、神功 [加羅七国平定]

4世紀後半の加羅(高霊)の勃興期、。日本書紀で、初めて「加羅」が出て来る時期となる。ただ、現実は、コムナリ加耶主体の文の流れである。

鉄の話題

この頃は、まだ倭国では、自前の製鉄を行っていない。
日本書紀では神功46年(AD366年)、百済の記事が初出、 そのあたりは「百済記」を参照したと言われる。
トクジュン王 マキムカンキ
斯摩宿禰の従者「ニハヤ」とトクジュンの人「ワコ」をが百済に派遣する記事である。彼らは百済について、厚遇されて、「五色の絹 一匹、角弓、鉄鎚四十枚
また神功52年(372年)、百済の「クテイ」等が、千熊長彦に従って詣。そのとき「七枝刀、七子鏡、種種の重宝」を献上とある。
「臣の国の西に水有り。源は谷那の鉄山より出る。その遠きこと七日いきて及ばず」
加羅、倭国にしても、「鉄製品」は、まだ半島百済にあり、献上品になるくらい貴重な物。また「剣」でなく、「刀」であるから、騎馬戦時代の草創期か?

三国史記での百済

-地図 朝鮮半島
---------三国史記-----------

この頃、馬二匹送るとあり、まだ騎馬戦も本格的になっていない。

  近肖古王 比流王第二子也 體貌奇偉 有遠識 契王薨 繼位.(346年)

二十一年(366年)春三月丁巳朔 日有食之 遣使新羅送良馬二匹.
二十四年(369年) 秋九月 高句麗王斯由帥?騎二萬 來屯雉壤 分兵侵奪民? 王遣太子以兵徑至雉壤急?破之 獲五千餘級 其虜獲分賜壯士 冬十一月 大?於漢水南 旗幟皆用?.
二十六年(371年) 高句麗擧兵來 王聞之伏兵於バイ河上 俟其至急?之 高句麗兵敗北 冬 王與太子帥精兵三萬 侵高句麗攻平壤城 麗王斯由力戰拒之 中流矢死 王引軍退 移都漢山.

三十年(375年) 秋七月 高句麗?攻北鄙水谷城陷之 王遣將拒之 ?克 王又將大擧兵報之
以年荒?果 冬十一月 王薨.

近仇首王
(一云諱須) 近肖古王之子(375年)


二年 以王?眞高道爲?臣佐平 委以政事 冬十一月 高句麗來侵??.
三年 冬十月 王將兵三萬 侵高句麗平壤城 十一月 高句麗來侵.
十年(384年) 春二月 日有 三重 宮中大樹自 夏四月 王薨
 
枕流王 近仇首王之元子 母曰阿?夫人 繼父?位(384年)
二年(385年) 春二月 創佛寺於漢山 度僧十人 冬十一月 王薨  
辰斯王 近仇首王之仲子 枕流之弟 爲人?勇 總惠多智略 枕流智薨也 太子少 故叔父辰斯?位.(385年)

二年 (386年)春 發國?人年十五?已上 設關防 自木嶺 北距八?城 西至於海 秋七月 ?想害穀 八月 高句麗來侵.
八年 (392年)夏五月丁卯朔 日有食之 秋七月 高句麗王談コ師兵四萬 來攻北鄙 陷石?等十餘城 王聞談コ能用兵 ?得出拒 漢水北諸部?多沒焉 冬十月 高句麗攻拔關爾城 王田於狗原 經旬?返 十日月 薨於狗原行宮.

北の百済と高句麗との闘争-

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  (1)
  三国史記では、主要なテーマは近肖古王百済と高句麗との闘争である。 平壌を攻めて、高句麗王をやっつける。主として「漢水」以北が戦場となるようで、この戦いの結果、漢城に移都とある。かっての帯方郡を取り戻したか?

まったく日本書紀と反対のスタンス。
        
  どこから移都なのか不明だが? 明らかに温祚オンジョ 百済北方夫余系の物語
、(日本書紀には記載なし)、沸流プル百済は帯方から海を渡り、南の錦江流域、つまり馬韓あたり

(2)
392年には高句麗王談コ師兵四萬が攻めてくる。結果、せっかく取り戻した漢水北部「帯方」は高句麗のものとなる。高句麗からみれば取り戻したわけ。高句麗は漢水北部まで取れば南方進出は止まる。以降は、遼東を廻って「後燕」との戦い。

 応神(390---)


-----日本書紀-----------
  

応神3年  392年百済辰斯王立之失禮於貴国天皇 

故遣紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰、嘖譲其无禮状 由是百済国殺      辰斯王以謝之 紀角宿禰等 便立阿花為王而帰」

応神7年 396年 百済人来朝

応神14年 403年 弓月君自百済来帰 因以奏之曰 臣領己国之人夫百廿県而帰化 
     然因新羅人之拒 皆留加羅国


応神16年 
405年 「百済阿花王薨 天皇召直支王 之曰 汝返 国 以継位 
応神20年 
409年 倭漢直阿知使主 其子都加使主 並率己之党類十七県而来帰」


応神25年 414年 百済直支王薨 即子久彌辛立為王 王年幼 木満致執政国政
       興王母相淫多行無礼 天皇聞而召之
応神39年 420年 
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応神  コムナリ加耶の強盛

注目点
  北の百済=温祚オンジョ百済
  コムナリ加耶(南の百済)=沸流プル百済)
  加羅加耶 洛東江(ナクトンガン)
 辰斯王最後の話はどちらにもある。もちろん、コムナリ加耶が暗殺したことなど何処にも書いていないが、日本書紀を見れば判る。このとき、百済まで出かけたのは沸流プル百済)、「百済」に対しては南からも攻撃

 応神3年  392年--コムナリ加耶 北の百済「辰斯王」暗殺し、この中の紀角宿禰等はコムナリ加耶に居た(沸流プル百済)を示す。 いわゆる、竹内、木菟、蘇我の一連の流れである。

この392年とは、三国史記でもあるように、七月、高句麗談徳が北の百済を攻撃、漢水北部を制圧した時期で、冬十月 高句麗攻拔關爾城 辰斯王最後の時

 396年、倭国へ人質 
当時の百済は北は高句麗から攻められて、漢水北部(帯方)を失い、窮地に陥る。
   

(加耶+倭) 

  結果、半島からは外来系移住開始。加耶+倭 の領域が倭から半島中部まで広がって、人之往来が多くなる。

  結果、応神とは、「コムナリ加耶」の支配下にはいった「百済、新羅・加羅」等の加耶が倭への移住を開始した時代である。この時代、北方からは「高句麗」の脅威あり、加耶は倭へユーターンである。

日本書紀では、倭漢直は何処からきたか書いていない。弓月君は百済からとあるが、この百済は南 か北? 
また 直支は、前回、人質できていたのに、阿花王が亡くなると、「東韓」を与えて国へ返すとある。あくまでもコムナリ加耶主体の百済が続く。

三国史記

------三国史記--------------

百濟本紀 第三 (辰斯王 阿?王  支王 久爾辛王 毘有王 蓋鹵王)
辰斯王 近仇首王之仲子 枕流之弟 爲人?勇 總惠多智略 枕流智薨也 太子少 故叔父辰斯?位.
二年 春 發國?人年十五?已上 設關防 自木嶺 北距八?城 西至於海 秋七月 ?想害穀 八月 高句麗來侵.(385年)
三年 春正月 拜眞嘉謨爲達率 豆知爲恩率 秋九月 與靺鞨戰關彌嶺 ?捷.
五年 秋九月 王遣兵侵?高句麗南鄙.
六年(390年)九月 王命達率眞嘉謨伐高句麗 拔都?城 虜得二百人王拜嘉謨爲兵官佐

八年(392年) 秋七月 高句麗王談コ師兵四萬 來攻北鄙 陷石?等十餘城 王聞談コ能用兵 ?得出拒 漢水北諸部?多沒焉 冬十月 高句麗攻拔關爾城 王田於狗原 經旬?返 十日月 薨於狗原行宮.

阿花王(或云阿芳) 枕流王之元子 初生於漢城別宮 神光?夜 及壯志氣豪邁 好鷹馬 王薨時 年少 故叔父辰斯繼位 八年薨 ?位.(392年)
二年(393年) 春正月 謁東明廟 又祭天地於南壇 拜眞武爲左將 委以兵馬事 武王之親? 沈毅有大略 時人服之 秋八月 王謂武曰 關彌城者我北鄙之襟要也 今爲高句麗所有 此寡人之所痛惜 而卿之所宜用心而雪恥也 遂謀將兵一萬伐高句麗南鄙 武身先士卒以冒矢石 意復石?等五城 先圍關彌城 麗人?城固守 武以糧道?繼 引而歸.
三年 春二月 ?元子?支爲太子 大赦 拜庶弟洪爲?臣佐平 秋七月 與高句麗戰於水谷城下敗績 太白書見.
四年 秋八月 王命左將眞武等伐高句麗 麗王談コ親帥兵七千 陳於?水之上拒戰 我軍大敗 死者八千人 冬十一月 王欲報?水之役 親帥兵七千人過漢水 次於木嶺下 會大雪 士卒多凍死 廻軍至漢山城 ?軍士.
年(397年) 夏五月 王與倭國結好 以太子?支爲質
七年 春二月 以眞武爲兵宮佐平 沙豆爲左將 三月 築雙?城 秋八月 王將伐高句麗 出帥之漢山北柵
八年(399年) 秋八月 王欲侵高句麗 大?兵馬 民苦於役 多奔新羅 ?口衰減.(減 舊本作 滅 今校之)

十一年(402年) 夏 大旱 禾苗焦枯 王親祭岳 乃雨 五月 遣使倭國求大珠.
十二年 春二月 倭國使者至 王迎?之特厚 秋七月 遣兵侵新羅邊境.
十四年(405年) 春三月 白氣自王宮西起 如匹? 秋九月薨.

 支王(或云直支) ?書 名映 阿?之元子 阿?在位第三年?爲太子 ?年出質於倭國 十四年王薨 王仲弟訓解攝政 以待太子還國 季弟??殺訓解 自立爲王 ?支在倭聞訃 哭泣請歸 倭王以兵士百人衛送 ?至國界 漢城人解忠來告曰 大王棄世 王弟?禮殺兄自立 願太子無輕入 ?支?倭人自衛 依海島以待之 國人殺?禮 迎?支?位 妃八須夫人 生子久爾辛.(暎 必是?之訛)(405年)


三年 春二月 拜庶第餘信爲?臣佐平 解須爲?法佐平 解丘爲兵官佐平 皆王戚也.
四年 春正月 拜餘信爲上佐平 委以軍國政事 上佐平之職始於此 若今之?宰.
五年 倭國遣使送夜明珠 王優禮待之.

十二年(416年) 東晉安帝遣使冊命王爲使持節都督百濟諸軍事鎭東將軍百濟王.
十四年 (418年)夏 遣使倭國 送白綿十匹.


十六年(420年) 春正月 王薨.

久爾辛王  支王長子  支王薨 ?位.(420年)
八年 冬十二月 王薨.(427年)

毘有王
久爾辛王之長子(或云 ?支王庶子 未知孰是) 美姿貌 有口辯 人所推重 久爾辛王薨 ?位.
(427年)
二年 (428年)春二月 王巡撫四部 賜貧乏穀有差 倭國使至 從者五十人.

四年(433年) 夏四月 宋文皇帝以王復修職貢 降使冊授先王暎爵號.(?支王十二年 東晉冊命爲使持節道督百濟諸軍事鎭東將軍百濟王.)

七年 (434年)春夏 ?雨 秋七月 遣使入新羅請和.
八年 (434年)春二月 遣使新羅 送?馬二匹 秋九月 又送白鷹 冬十月 新羅報聘以??明珠.
二十九年(455年) 春三月 王獵於漢山 秋九月 K?見漢江 須臾 雲霧晦冥 飛去 王薨.

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高句麗は漢水北部を制圧

 辰斯王は貴国に礼なし 辰斯王を暗殺、辰斯王の最後は表現が違うものの、両方の歴史書にある。これがコムナリ加耶と百済との闘争の開始である。辰斯王からコムナリ加耶の「阿花」に王を変える。

 また何故に392年の戦いを書かないか? ただ南のコムナリ加耶から見れば「辰斯王」暗殺という側面援助を行った。 



 阿花王になって、「關彌城者我北鄙之襟要」として、關彌城を取り戻そうとするが、ならず。
北は高句麗が、南はコムナリ加耶が強勢、結果、倭国と友好を結ぶ。阿花王自体、コムナリ加耶(すなわち倭国)がアレンジした王であり、人質として王子を倭国へ送る。

高句麗+新羅
百済+倭国

百済国内での内部闘争

注目点
  北の百済=温祚オンジョ 百済
  コムナリ加耶(南の百済)=(北方沸流プル百済)+南方呉
  加羅加耶=北方鮮卑系+倭 
 北の百済と南の百済勢力との闘争が続く。 直支が帰国するとき、百済漢城では乱れて。王の仲弟が摂政をして直支の帰国を待つが、暗殺される、しばらく待つ。 国民が?禮を殺したあと入国。 このあたりは日本書紀は何も書いていない。 

 先に奪われた「東韓」の地を与えるとは?  

直支が百済王となるときに、コムナリ加耶として東韓が百済領として持参?この「東韓」の地理も不詳???

対高句麗共同戦線

 毘有王になって、北の百済は新羅と同盟関係を結び、高句麗と対処(433年)。このとき、加羅も対高句麗に転換する。このあたりの記載も日本書紀には無い。何故ならば、北の百済の話であるからだ。

応神の次は「雄略」の時代となって、加耶、すなわち倭国最強の時代
となる。



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