任那(駕洛国)と狗邪韓国 

朝鮮半島の地図

日本書紀-------- 「南加羅」、
三国史記 新羅本紀------------ 「金官国」 
三国志魏書東夷伝倭人-------「狗邪韓国」、
三国遺事---高麗時代の歴史書「三国遺事」--

三国遺事「五伽耶」に、「駕洛国」は入らない

--『三国遺事』の「駕洛国記」、五伽耶とは次のものを言う

。例えば、
阿羅(一作耶)伽耶(今咸安)
古寧伽耶(今咸寧)
大伽耶(今高靈)
星山伽耶(今京山玄)
碧珍小伽耶(今固城)

 
この地図は参考として「加耶」の分布

   大伽耶 --高霊  --
   伽耶   --威安  --
  小伽耶-----固城 ---


以上の五加耶は巨済島と半島の鎮海湾より北部に展開されていて、洛東江河口の金海は入らない。 魏書のいう「狗邪韓」は巨済島北岸!!

大賀洛または伽耶国


國稱大駕洛。又稱伽耶國。即六伽耶之一也。
六伽耶になると「金官伽耶」金海が追加される。

大駕洛,  つまり「金官伽耶は「五伽耶」に入らず、「大賀洛」は当初、「加耶]ではない。 六伽耶になると「金官伽耶」が追加される。 


任那(呉)系← 駕洛 (洛東江河口金海 ) 
狗邪系 ←五加耶(小伽耶から大伽耶まで )--加羅諸国に発展

南加羅は固城
 

 金官国は確かに任那だが、日本書紀を読むと、「任那」は言葉の遊びみたいで、実は軽い。金官国の盛衰でさえ曖昧なのである。 

 「任那(呉)」系と「狗邪」系の二つの流れを考えると
任那系← 駕洛 (洛東江河口) 
狗邪系 ←五加耶(ハマンから高霊)
 

 任那は倭の原点なのに、日本書紀は、それに対して姿勢が案外軽い。例えば、任那の「金官国」が新羅に投降、滅んだ年月が記載されていない。どうでも良い事件だろうか? 金官国は532年に新羅に降伏
    金官 −−本来の任那

南加羅が、すなわち金官とされるが? 実は南加羅は小伽耶で今固城であう。
 

狗邪から加羅 

       「狗邪」という言葉は「狗邪韓国」から。
       任那は日本書紀からの言葉、 (古事記には任那は登場しない)

加耶古代史観から分析結果

駕洛国  (任那(呉) )⇒南方呉+倭+夫餘  
                                對海、一大、末盧、伊都

----------
狗邪韓   ⇒鮮卑+北方漢       
                                狗邪韓、奴、不彌、投馬、邪馬壹

狗邪は当初、栄山江(ヨンサンガン-流域)、鎮海湾沿岸)だが、北上して洛東江上流へ。    
加羅  ⇒   (鮮卑+北方漢)+夫餘 
加羅は「狗邪」+夫餘]   洛東江上流と高句麗からの流れと融合、加羅となる。 


日本書紀 タタラツの記事 洛東江東岸[新羅」 

 任那には疎い日本書紀でも具体的に洛東江河口が出てくる場面が有るが、地理的には東岸、今の釜山方面である。

 洛東江河口地図  

 日本書紀に出てくる、人質を追いかけて多少戦利品を持って帰ってくる話の舞台は「タタラツ」多大浦である。丁度、洛東江河口の先端にある。「海」から見れば、その拠点は河口の方がふさわしい。このとき「漢人(あやひと)」の捕虜を連れてくる。
  「新羅に詣りて、タタラツに次ぐ。 草羅城を奪う。このときの捕虜が今の桑原、高宮、忍海、この4村の漢人等の始祖とある」 

この洛東江東岸は「新羅」  、西岸は金海! 
この洛東江河口での「任那」と「新羅」の争いは歴史は古い。 
        

狗邪韓は伊都でなく、邪馬壹に繋がる 


 狗邪韓、對海、一大、末盧伊都、奴、不彌、投馬、邪馬壹、有斯馬、已百支、伊邪、都支、彌奴、好古都、不呼、姐奴、對蘇、蘇奴、呼邑、華奴蘇奴、鬼、爲吾、鬼奴、邪馬、躬臣、巴利、支惟、烏奴、奴、狗奴

このなかで、、對海、一大、末盧、伊都、の国が、何故か、私達にもなじみのある「漢字」で、他の国名はほとんど表音文字みたいで、意味不明。ここから、国の繋がりを推察すると、以下のようになる。渡海路の分析 参考

このように、
   狗邪系     --狗邪韓、奴、不彌、投馬、邪馬壹
   任那高麗系    弁辰狗邪   對海、一大、末盧、伊都



一大と壱岐  對海と対馬

 二つの流れで気になるのは「一大と壱岐 ]對海と対馬」である。對海、一大とも、「対馬、壱岐」とは字が違う。 壱岐を「一大」と書くのは? 単なる誤植として片付けて良いもんか?
 それに「一大率」の「一大」とも関連?

 自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史

女王国以北には「一大率」を置いて、諸国を検察した。この「一大率」も意味不明だが、「一大」は壱岐の島のことだとしたら。元来、一大率は一大、つまり壱岐にいて、伊都が都になって、移ってきたのだろうか。壱岐の「岐」は「岐神」(ふなとのかみ)で 「岐」は海上交通に関係する言葉。

 對海
  海に対している。 対馬の北端からは、さすが大海にはいって南へ向かう。この「 對海」は海に対する、向かっている対馬を良く表している。「対馬」は「邪馬台」や「投馬」と同じ呼び名で「馬」が入っていることもヒント?。元来、「卑弥呼」という名前の漢字を見れば、「卑」という「卑しい」字が使われて入る。

一大、對海----任那高麗系
壱岐、対馬」---狗邪系

この両者の流れで、これらの島の呼び名も変わって来る。 当然、この両者によって渡海路も異なるはずだが、それは別項で触れる。

  

卑弥呼と新羅の関係

卑弥呼と新羅の関係はどうか? 、三国史記 新羅本紀に記載が有る。通説では殆ど注目されない記事である。

新羅本紀 第二 阿達羅尼師今
二十年 夏五月 倭?王卑彌乎 遣使?聘

西暦年数で言うと、173年にあたり、卑弥呼集団が倭国に移住した時期に相当するか? 不思議なのは、何故、卑弥呼は新羅に使いを送ったかである。 


狗邪 ⇒(鮮卑+漢) 

 新羅の建国神話から推理すると、新羅には3個の建国神話が有る。そのうち、神話ー2であり、当時の新羅は狗邪韓国と同系で洛東江河口の東側にある。  

 両者とも大陸からやって来た狗邪系であり共通のルーツを持つ。

      新羅     (洛東江東岸)
      狗邪韓国  (巨済島北岸)
      倭国卑弥呼集団(邪馬台国)

倭国へ渡海した卑弥呼集団は伊都先住を駆逐して倭の地に邪馬台国を建てる。

       

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