任那系と加羅系 倭国や半島での闘争 


任那誕生 駕洛国   


「駕洛国」を建国 AD42年  元来の任那

この北と南、(天孫降臨(北方)と卵生神話(南方))、
 両者の流れが朝鮮半島南端、さらの倭へ進出した時期で、仏教が中国へ伝来した頃にも当たる。

 夫餘+南方呉+

プル百済 コムナリ系



コムナリ(錦江流域 熊津)に定住していた南方呉


 この呉系集団は海洋航海にも強く、はるか春秋戦国時代の「呉」、「越」まで遡る。呉は大運河工事、越は海上交通に得意だった。BC5世紀   

 また駕洛国建国神話にあるように、金首露のお后ははるかインド「アユダ国」から来る。インドまでの海路が想像される。地図を見るとインドの「伽耶」(gaya)という聖地を見つけた。約2500年前、Bodh Gaya,、伽耶城郊外の菩提樹のもとで仏教は生まれたのだ。南方呉系は遠く、インドの「伽耶」とも交流があったことを示唆する。

この呉系は「漢民族」ではなく、もっと南から中国へやってきた集団(呉族)、ここではコムナリ加耶という。
百済の分類でやれば、

                      百済(プル百済)=北方漢+夫餘+南方呉

 百済の正史では、プルの弟、温祚オンジョBC18-AD28が百済を建国するが、そのとき、海へでて自殺するという兄の「沸流プル百済」 、実は南下して、当時のコムナリ(熊津)へ行き、南方呉系と融合する。

 百済はその源流は夫餘で、夫餘は古代の「粛慎」に起源をもつ。日本書紀では「みしはせのくに」と呼ばれる。現在の中国少数民族では、「満州族」もその一つで、ツングース系狩猟採集民族。もう一つ、縄文時代に大陸から南下してきた集団も同じ流れを組む


狗邪韓国 建国

  倭の北岸「狗邪韓国」  --
 
      鮮卑+北方漢=狗邪
                           
  この卑弥呼はまた新羅とも関係あり、狗邪系として同一ルーツである。

建国神話は新羅を参照すると良い。例えば神話−2は、卵が海流で流れて漂流するが、その元、神話−1は「馬」が登場する。一つの流れは新羅のうちの一つとなり、もう一つは渡海して倭国へ、「卑弥呼」である。 
       『後漢書』卷九十 烏桓鮮卑列傳第八十

     。】其中有魚、不能得之。聞倭人善網捕、於是東撃倭人國、得千餘家、徙置秦水上、令捕      魚以助糧食


卑弥呼 「君」 倭国への展開

狗邪系=鮮卑+北方漢

 卑弥呼の「卑」は鮮卑の卑? 倭国の大乱は、この両勢力の九州北部の争奪戦。結果、卑弥呼集団は豊後から豊予海峡を渡り伊予へ、伊予、讃岐と四国、鳴門を渡り、淡路。紀淡海峡を渡り、紀ノ川遡行、大和東南部へ入る。

記紀の神話に見る「渡海」の苦労等、騎馬民族を考えれば容易である。本来、海の民であるならば、渡海に神を見出すこともあるまい。寄港地の証として「神宮」を造る。
 る


半島 加羅の強盛 任那の弱体


加耶古代史観 分析によると、
加羅は
。 加羅=鮮卑+北方漢+夫餘 

狗邪系が北上とともに夫余系と混交、加羅諸国が形成される。

 加耶勢力は洛東江中上流域の内陸へ発展、加羅(高霊)を中心として加耶諸国が出来上がる。時に369年、日本書紀の言う「加羅七国平定」である。このときを任那の起源とする説もあるが、日本書紀は、ここでは任那とは何も言っていない。神功新羅征討は任那とは直接関係はなしか? 

加羅 強盛


 加羅加耶とコムナリ加耶が同盟して、共闘開始する時期

その構成は 
      コムナリ加耶=北方漢夫餘+南方呉
        加羅加耶=鮮卑+北方漢+夫餘

となり、かなり似通ってくるが、鮮卑と南方呉の部分が依然として相違する。としても、新羅には共闘してあたる。

このあたりは、日本書紀の神功、応神に詳しいが、加羅建国以降、4世紀後半からのこの「加羅」は北河内へ。以降、「物部連」として倭国の支配層の一つとなる。また、コムナリは「応神ー雄略」、

-加羅加耶 「履仲」、「反正」、「顕宗」、「仁賢」 
-新羅加耶 「印恭」、「天武」
コムナリ加耶系 「応神」「雄略」  

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