第1 高麗 ----------- 夫餘、呉、倭
第2、 百済(プル百済)----漢、夫餘、呉
第3 百済(オンジュ百済)-漢、夫餘
第4、 新羅------------夫餘、呉、
第5 新羅 -----------夫餘
第6 加羅 ------- 鮮卑、漢、夫餘
狗邪----------鮮卑、漢
任那とは加耶の朝鮮半島での故郷である。
、加耶は本来、南方呉系が北上して半島で北からの流れと南北融合してできたもの。 それは高句麗、百済、新羅の構成要素ともなる。だが南北融合したあと、高句麗、百済、新羅y等の侵略により、加耶集団は倭へ回帰する。
ただ加羅系は北方からだけの流れであるが、彼らも新羅とかに併合されてしまい南下するけれど、彼らも半島の故地を任那と呼んでいる。
、
任那
日本書紀の記事によれば任那の場所は? 「任那」」という地名のところがあるわけでなく、
加耶の故地を日本書紀では「任那」と呼んでいる。
南方呉系の任那ー天皇にかかる本当の任那。
(1)
新羅に併合
洛東江(ナクトンガン)加河口西岸 賀洛国--、金海⇔高麗加耶
(2)
百済に賜う
錦江(クムガン)流域 --雄略、⇒コムナリ加耶
蟾津江(ソムジンガン)ーー継体、⇒ トムタレ加耶
北方加羅系の任那
洛東江(ナクトンガン) 流域 加羅諸国 いわゆる加羅七国平定の場所である。
加羅諸国 洛東江流域で発展、
神功49年(369年)にある「ヒシホ、アリヒシノカラ、トクノクニ、アラ、タラ、トクジュン、カラ」等の七国平定である。これが加羅勢力の任那!!
南加羅 -固城
トクノクニ -慶山
阿羅ーーー馬山
多羅ーーープサン
トクジュンーーテグ
加羅 (高霊)
朝鮮地図
韓国慶尚南道
洛東江(ナクトンガン)河口--、金海 かっての「賀洛国」!!
任那 半島と倭の海上路を結ぶ交通の要所
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洛東江流域は、いわゆる、通説では「加耶諸国」と呼ばれる地域で、任那というと普通この地域を指すことが多い。その中でも、新羅に投降、併合されたのは現在の金海あたりで、日本書紀で、後代、新羅から奪還の対象になるのはこの地域である。
としても、日本書紀の記述はあいまいである。まず、この任那が新羅に併合される時期を正確に記していない。以降、任那復興が叫ばれる割には日本書紀は消極的である。とういうのも百済、新羅、加羅にしても、裏では「ミマナ加耶」を占拠しようと虎視眈々だから、「任那復興」も口先だけなのかもしれない。
金官国が新羅に統合されるころ、筑紫では狗邪系の「磐井君」も加羅系と新羅系によって殲滅される。
以降、任那復興軍が派遣されるのは、「蘇我馬子」登場して、物部守屋大連が倒され、さらに、欽明の流れを組む「崇峻天皇」が暗殺された以降である。
加羅加耶が殲滅、その後ろ盾でいた新羅が国力劣勢の時 、本格的な任那奪還となる。
任那復興を阻害していた勢力は百済もしかり、さらに新羅や加羅もまた阻害していたのではないか? 加羅もまた任那側かどうか? 加羅は任那と敵対関係にあった。
韓国忠清南道 錦江中流域
、「雄略時代」の時に、百済に賜って、国を救い起こすとある地域で、日本書紀では「コムナリ」と呼ばれ、後、百済国の首都となる 現在の公州市。(コンジュ)
百済に賜う つまり百済に併合される場所の一つとして「コムナリ」がある。 コムナリとは「熊津」のこと。 現在の錦江流域、公州である。 日本書紀では、その百済とのその交流が「ヘキムレの誓い」、「七支刀の献上」とか出てくる。 (別項) このあたりを解析すると 「加羅とプル百済(コムナリ加耶)の同盟」を象徴している。 「加羅」が洛東江流域を押さえることにより小白山系向こうのプル百済(コムナリ伽耶)とも連携しだす。
「コムナリ加耶」とここでは呼ぶ。 いわゆる任那の一部である。 ここにいた「コムナリ加耶」は、「応神--雄略天皇」に象徴されるように、倭へ移住、倭国の中枢となっていく。すなわち、応神期になると、アチオミ、秦とか系が大量に倭に移住、雄略天皇は、コムナリ加耶 である。
また多島海 半島南西部は、「継体時代」に出てくる任那国の「オコシタリ、アロシタリ、サダ、ムロ」の4県(全羅南道全域)と全羅南道と慶尚南道の境にある蟾津江口付近の「コモン、タサ」である(トムタレ加耶)。
ただ、いずれも、百済に「賜う」であり、後代の奪還の対象になら無い。
トムタレとは済州島の古名
雄略天皇(コムナリ加耶)が「新羅や加羅」によって殲滅され、加耶の世界は危機に瀕する。 そこで登場したのが、半島のトムタレ加耶、つまり継体天皇である。 この頃オンジョ百済はさらに南へ加耶の世界を攻める。 ついに、半島南部多島海、すなわち全羅南道を獲る。 このあたりにいた「継体天皇」は倭に移住し、倭国の中枢に近づく。 以降は継体(
トムタレ加耶)と加羅加耶との融合 すなわち欽明朝。
天智天皇もトムタレ加耶
始現故諱首露。或云首陵(首陵是崩後諡也)。國稱大駕洛。又稱伽耶國。即六伽耶之一也。餘五人各歸為五伽耶主。東以黄山江。西南以[泳-永+蒼]海。西北以地理山。東北以伽耶山南而為國尾
第6 加羅 ------- 鮮卑、漢、夫餘
、洛東江流域の加羅が、中流にある交通の要所「トクジュン」、現在の「テグ」を新羅勢力から奪った事件、すなわち、神功49年(369年)にある「ヒシホ、アリヒシノカラ、トクノクニ、アラ、タラ、トクジュン、カラ」等の七国平定である。加羅勢力が洛東江流域を押さえた歴史的事件。
日本書紀の言う「南加羅」は金海ではなく、「固城」である。狗邪系は巨済島かrから固城、
それから北上。
これを契機に、加羅は飛躍的に発展する。 すなわち、小白山系を超えて、錦江流域と交流するようになる。 現在でも、プサン、テグ、ソウルと結ぶ大動脈が走る。 この時、中心として働いたのは「高霊」に本拠をおいた「加羅」である。
加羅は倭では履中、反正天皇の時代、倭国の中枢へ。 一方、物部として、新羅の先兵となって倭先住「呉系」を殲滅する。 当時は戦乱状態、コムナリ加耶の雄略が倭へきて、この物部系を討伐、さらに、新羅加羅が雄略コムナリ加耶を殲滅するなど、勢力分布は大いに変化。
最後にやってきた「トムタレ加耶」、つまり、継体加耶とも合体して、中枢に近づく。 ただ、加羅は433年以降、新羅、百済同盟に参加、反高句麗、即ち、倭先住「呉系」と敵対するようになる。