南から北へ 賀洛国 任那 1世紀 −−洛東江河口 金海神代下、神話の終わる最後のところ、崇神65年(278年)に任那が始めて出てくる。
魏志倭人伝の邪馬台国は、「倭」 狗邪系。半島で 巨済島拠点
2世紀から3世紀は?狗邪系が巨済島をまず拠点として、以降、洛東江流域を北上、内陸を開拓する頃である。三国遺事による「五伽耶」の時代、、。日本書紀でもこの時代は書いていない。 卑弥呼の時代であるが、、。 このころ、鮮卑系が活躍!! これは列島には倭をもたらすが、日本書紀は至って冷淡。 だから今でもなお、卑弥呼の時代、3世紀当時はよくわからない。
加羅 ------ 鮮卑、漢、夫餘
狗邪----------鮮卑、漢
一つ、南加羅の話題だが、通説ではこれを金海とするが、南加羅はやはり狗邪系で、
巨済島あたりかと思う? 当時は「加耶」とされて新羅本記などに出ている国。
このあたりは事項で詳しく!!!
加羅諸国の成立
4世紀以降は、今度は高句麗の力が強くなる。狗邪系が北からの流れと融合して「加羅系」となるのは4世紀以降で、実際、加羅ができあがるのは4世紀後半
このころから日本書紀は詳しく記載する。
とにかく加羅ができる頃、
神功(321---389)時代、小白山山系を越えて、洛東江流域まで進出 安羅、加羅とも併せて、新羅を攻撃して、卓淳を奪取する。 ここでコムナリと加羅の共闘が出て来る。
。
さらに、この時、「ヒリ、ヘチウ、ホムキ、ハンコ」四つ村、自然に従うとあり、また、370年、「タサ」を往還の路の駅とした。 トムタレと呼ばれた済州島も「倭」から奪う。
加羅による半島西南部への勢力拡大。
コムナリと列島間の交通路として、蟾津江流域経由の近道ができた。
加羅 の津である。蟾津江河口、これは洛東江河口は呉系の拠点。加羅は智里山南麓から蟾津江河口へと。 コムナリ加耶は加羅と共闘して、蟾津江河口をともに使う。 半島西南部海岸地帯を経由せずに、南下の近道ができる。これでコムナリと列島間の交通も容易となる。
朝鮮半島の地図
こ
コムナリ加耶や加羅の最盛期で領域も最大。
5世紀前半は、日本書紀では、応神期(390--430)にあたるが、新羅や百済から人質を取る位、強大で、コムナリ加耶や加羅の最盛期で領域も最大。
当時はコムナリを拠点として百済国の王位継承にも干渉。対高句麗戦線として、百済、新羅、加羅同盟を結ぶ(433年)(、日本書紀では記述はない。) 加羅は任那から分かれて、独立の道を歩む。 倭国内ではカラ加耶が5世紀前半渡来し、新羅勢力の先兵となって倭先住加耶系を討伐し、倭国の中枢へ。としても、カラ加耶は倭国を統一するまではいかない。
これに対して、コムナリ加耶が、 先来の「加羅、新羅勢力」を駆逐、コムナリ系と先住 共存状態。 そのうち、新羅に後押しされた「加羅」の反撃で加耶系はは終焉する。 この歴史から見れば、雄略天皇は伽耶から倭国を統一した天皇で、もっと評価されて言いと思うが、記紀を見れば 誠、残虐な天皇として書かれ評判が悪い。
新羅から見れば憎き敵なのかもしれない。
百済、新羅から侵食される、「加耶」の領域は次第に狭まる。
雄略25年(475年)百済の漢城が高句麗に奪取された時、コムナリ(古くは熊津、現在の忠清南道公州)をもって百済を救い興すとある。しかし、これは百済が遷都したことに代わりがないのだが、伽耶+倭国の支配地域の任那は確実に狭まった。 オンジョ百済南進
継体時代(507--533年)以降、この頃、半島ではオンジョ百済と新羅は対高句麗で共闘体制にあった。一方、倭地では倭先住 「平群」が、加羅「物部」と新羅「大伴」によって滅ぼされる。ついで、半島との交通拠点を握っていた狗邪系の「筑紫磐井君」も滅ぼされる。
半島と筑紫の海上路の拠点は加羅、新羅が獲る。
その加羅に対抗するため伽耶 トムタレ加耶「継体天皇」が半島から倭国へ。
継体6年(512年)、オンジョ百済はコムナリへ遷都後、西南部海岸一帯に進出し、コムナリ加耶の「オコシタリ、アロシタリ、サダ、ムロ」の4県(全羅南道全域)と全羅南道と慶尚南道の境にある蟾津江口付近の「コモン、タサ」を奪った。当時は、百済、新羅の共闘の時代で、新羅は百済の南下を黙認したし、また百済も新羅の洛東江流域への進出を黙認した。この結果、任那の領域は狭まっていく。
532年、洛東江下流域の金官国は投降、新羅に併合される。
(日本書紀では滅んだ時期は書いていない)
任那復興は叫ばれるが、周りは全て「アンチ任那」 倭国では加羅物部 全盛
欽明時代(540---571)になって、背後に百済国は復興会議とは裏腹に、実は、新羅と洛東江流域への進出を争っていた。百済の前線には、任那加耶の「安羅」が控えて百済の前進を阻んだ。欽明時代の復興会議は「欺瞞」であり、百済は新羅と手を組んで、任那に郡令・城主を駐留させて、任那を虎視眈々と狙っていた。
百済、新羅同盟は552年、百済と新羅の連合軍が高句麗を討って漢城を取り戻し、554年、聖王が新羅の裏切りで殺されるまで続く。
554年、聖王が新羅の裏切りで殺され、新羅、百済と加羅の共闘体制が崩れる。加羅は新羅と敵対し、百済につく。
(日本書紀では欽明23年、新羅、任那の官家を打ち滅ぼすとあり、当時、任那は十国(カラ、アラ、シニキ、タラ、ソチマ、コサ、シタ、サンハンゲ、コチサン、ニムレ) この任那の官家とは「加羅」のこと。
この同盟が破綻されたあと、加羅は百済側につき、562年、反乱する。しかし、あえなく、加羅は新羅によって滅ぼされる。
崇峻前期 588年、 倭国で、加羅系「物部守屋大連」討伐されて()、加羅系の支配は終り、倭高麗系へ。
崇峻前期 588年
倭国で、加羅系「物部守屋大連」討伐されて()、加羅系の支配は終り、高麗系へ
高句麗系台頭
後、任那復興は都度、叫ばれ、救援軍が組織される。なかでも、推古時代(593-628)には多く派遣される。
推古時代は、高句麗系して天下を取った時期であり、高句麗加耶の威力が復活した時代である。
敏達12年 任那復興を日羅と相計、百済から召す 。 結果は日羅 暗殺
崇峻4年 任那を建てる、二万の軍 筑紫へ
593年 崇峻暗殺
倭国 蘇我大王が統一 半島の任那の復興のため、軍事派遣
推古8年 万余 任那と新羅あい攻める。任那のために新羅を打つ。
10年春 新羅を攻める 来目皇子 二万五千軍 筑紫で皇子病死 新羅を征討できず。
11年夏 当麻皇子 新羅征討軍 妻舎人姫王 赤石で亡くなる。 討てず帰る。
18年春 新羅・任那 使人 来る
31年 新羅、任那を伐つ、任那、新羅につく。 数万の大軍 新羅征討
さらに、新羅は女王が2代続き、国力低下、そのためか 任那は新羅から離れた時期もある。 また百済も新羅を攻撃して、任那獲得を狙った。新羅苦難の時期で、金官国出身のキム・ユーシンが活躍する。
(1)
642年、百済(義慈王)が任那を新羅から奪い、オンジョ百済が迫る。
645年 大化改新
まずは高麗系 倭国王の排除
実行犯 天智天皇はトムタレ伽耶系
オンジョ百済側に組していく「蘇我入鹿」を討伐
結果は、背後から新羅が操作(新羅ー高句麗)、蘇我を討った「天智」であるけれど、加耶を裏切ったものは天下を獲れず。
、大化3年金春秋 人質として日本へ来る(647 )ただ、人質の割には、翌年、高句麗へ行ったり、さらに唐へ出かけたりして、そして新羅に帰って、大宗武烈王となる(653)。 だからただの人質ではない。 新羅政権を布陣するための工作であろう。新羅勢力 挽回する。
(2)
660年、唐ー新羅連合軍がオンジョ百済を滅ぼす。
任那は百済からも解放されて「加耶」として復活する。 半島との交通権を回復、天智は663年、やっと百済残党を救援に出かけ、百済難民を倭国へ引き取る。 (天智はプル百済だから、オンジョ百済は敵、 この百済難民とはプル百済系、 オンジョ百済系は北へ逃げる)
(3)
668年、高句麗も滅び、新羅の半島統一目前 プル百済の構成要素「夫余」は弱く
唐は、新羅と対抗するため、このころ、唐からたびたび軍事顧問が倭国を訪問。 これは新羅を牽制する「唐」の動きであり、新羅も簡単には「プル百済系加耶」を攻撃できず。
この頃、 「唐+プル百済」 対抗 「新羅」
(3)天武 対 天智
天武ーーー新羅
天智ーーープル百済系加耶
第1 高麗 ----------- 夫餘、呉、倭
第2、 百済(プル百済)----漢、夫餘、呉---
第3 百済(オンジュ百済)-漢、夫餘
第4、 新羅------------夫餘、呉、
第5 新羅 -----------夫餘
第6 加羅 ------- 鮮卑、漢、夫餘 ⇒ 「任那」
としても、半島統一を完成させるため、新羅は唐と闘争。
672年、壬申の乱 の意味?
新羅・唐 連合軍 新羅半島統一のため、高句麗、百済勢力の一掃
百済亡命集団 討伐 百済から亡命、天智天皇 援軍
高麗系 蘇我の殲滅 大化改新についで高麗系蘇我の殲滅
唐と新羅の戦いは671年以降険悪になり、676年まで続き、 遂に、676年、新羅、朝鮮半島統一を完成する。
任那その後
壬申の乱で、新羅系は日本を統一するが、その後は凋落して、加耶系が日本を握る。