物部系

物部のことは、まず邪馬台国から始めねばなるまい。

第一段階
2世紀後半 
狗邪系 =鮮卑北方漢


卑弥呼集団となって、「筑後から四国伊予経由で大和」へ 
 「君」集団

第二段階
3世紀末には、半島南部で夫餘も融合
   加羅=鮮卑+北方漢+夫餘 

となり、4世紀後半 応神ルートで朝鮮半島から移住多数、
「加羅」からの移住民は「物部連」。 

  いずれも「鮮卑」、 つまり騎馬民族の流れをくむのだ。彼らの移住地は河内だが、「生駒」などの名称はいかにも騎馬民族である。


狗邪 大和南東部 移住 

狗邪系
 
-  四国伊予経由 大和南東部 −−−卑弥呼系 邪馬台国東遷  
 

加羅系
物部「連」は、後代の移住ルート、山陽、河内潟、河内交野からとなる。

        加羅系 


 「ニギハヤヒ」の天孫降臨の地、物部連の渡来

 河内交野への移住

  旧事本紀によると、「饒速日命が天つ神の命により天磐船に乗って河内国河上哮峯(いかるがのみね)に天降り、更に大和の鳥見白庭山に遷った」とされている
 進出ルートは河内潟の北部を迂回して、「ニギハヤヒ」の天孫降臨の地、北河内 磐船神社に定着する。 交野から天の川を遡り、大和へ出るコースにある。3世紀後半?
「磐船神社 探索」

 その後、北河内から生駒山沿いに南進して、大和川と石川の分岐点に拠点を(当時は、大阪平野は殆ど河内潟のなかで、上町台地から南の百舌鳥野あたりが生活できそうな場所であった。 )

天皇のルーツとしては
  履中、反正
  オケ  仁賢 
が加羅系にあたる。

  河内磐船神社 物部上陸地
摂津住吉大社 物部(加羅系)、任那系と合祀

  

物部系 終焉


、遂には、物部は八尾の渋川で果てる。  588年、物部守屋は蘇我馬子と聖徳太子を中心とする連合軍に殲滅され、半島でも加羅は566年、新羅に降伏する。

  仁徳ー竹内の流れ 蘇我**高麗カヤ

以降、崇峻天皇も蘇我馬子の指示で暗殺されて、「加羅」系に近い系統も寸断される。 天皇が暗殺されても蘇我馬子にはなんのおとがめもなく、任那加耶 倭国の完成、。蘇我はいつも悪役にされてはいるが、「蘇我馬子」こそが任那加耶の伝統を受け継ぐ倭国の大王ではなかったか?