干支二運の調整 120年の調整
神武即位を紀元前660年にするため、天皇在位年数を増やしたりしている。
干支2運120年を調整、さらに「景行ー政務」の120年を挿入し、計240年は古代に
引き伸ばす。
年代的には日本書紀の記述は遡ってもAD2世紀から3世紀にかけての伝承だろう。とても紀元前660年までは到底さかのぼれない。神武元年は紀元前660年とされるが、実際、 「神武東征」は「新羅系の大和進出」(5世紀前半)の事実を神話化したものであろう。 新羅系と言えば、、「神武」ー 「允恭-安康」ー「天武」で新羅ラインである。
崇神は、古くても 2世紀半ば、半島から「狗邪系加耶」 すなわち卑弥呼集団の大和入り、
すいぜい」から開化までは倭の地での先住集団であろう。垂仁は 3世紀に入って半島からの加羅系加耶、まだ「大加耶」の時代の伝説であろう。
古墳時代、AD4世紀はじめから5世紀半ばあたりを見ると、
「仁徳」- 任那加耶「高麗系」 最初の天孫降臨同時代的に進行しており、これらは「雄略」でひとつに結ばれる。雄略天皇は万葉集でも
「神功ー「応神」 半島からに移住
「景行ー成務」 国内 倭、蝦夷との関係
初めての天皇の歌、トップバッターである。時代的には雄略だけが飛びぬけて時代が古い。
倭国の領土が倭と朝鮮半島南部までひとつにまとまった時、倭国最大の領土の時、その天皇だから
特筆すべきでろう。
「景行ー成務」は計120年 国内関連の記述、年代を古くするため直列に挿入されては
いるが、これも平行論。 加耶集団の倭の地で、先住の倭ならびに蝦夷との闘争。
即位年を | |||||
在位年数 | 西暦に換算 | 加耶古代史観による修正(1) | |||
神武 | 橿原宮にて即帝位 | 79 | 辛酉 | -660 | ? |
すいぜい | 即天皇位 | 33 | 庚辰 | -581 | ? |
安寧 | 即天皇位 | 38 | 癸丑 | -548 | ? |
懿徳 | 即天皇位 | 35 | 辛卯 | -510 | ? |
考昭 | 即天皇位 | 83 | 丙寅 | -475 | ? |
考安 | 即天皇位 | 102 | 己丑 | -392 | ? |
考霊 | 即天皇位 | 76 | 辛未 | -290 | ? |
考元 | 即天皇位 | 57 | 丁亥 | -214 | ? |
開化 | 即天皇位 | 60 | 甲申 | -157 | ? |
崇神 | 即天皇位 | 68 | 甲申 | -97 | 144 |
垂任 | 即天皇位 | 100 | 壬辰 | -29 | 212 |
景行 | 即天皇位 | 60 | 辛未 | 71 | ? |
成務 | 即位 | 61 | 辛未 | 131 | ? |
仲衷 | 即天皇位 | 9 | 壬申 | 192 | 312 |
神功 | 69 | 辛巳 | 201 | 321 | |
応神 | 即位 | 43 | 庚寅 | 270 | 応神は雄略につながる 390 |
仁徳 | 即天皇位 | 87 | 癸酉 | 313 | |
履中 | 磐余稚桜宮に即位 | 6 | 庚子 | 400 | |
反正 | 即天皇位 | 6 | 丙午 | 406 | |
允恭 | 即帝位 | 42 | 壬子 | 412 | |
安康 | 即天皇位 | 3 | 甲午 | 454 | |
雄略 | 壇を泊瀬朝倉宮 即天皇位 | 23 | 丁酉 | 457 | |
清寧 | 壇場を磐余の甕栗にて陟天皇位 | 5 | 庚申 | 480 | |
顕宗 | 近飛鳥八釣宮 即天皇位 | 3 | 乙丑 | 485 | |
仁賢 | 石上広高宮にて即天皇位 | 11 | 戊辰 | 488 | |
武烈 | 壇場を泊瀬列城宮 ーー設けて陟天皇位 | 8 | 己卯 | 499 | |
継体 | 即天皇位 | 27 | 丁亥 | 507 | |
安閑 | 即天皇位 | 2 | 甲寅 | 534 | |
宣化 | 即天皇位 | 4 | 丙辰 | 536 | |
欽明 | 即天皇位 | 32 | 庚申 | 540 | |
敏達 | 即天皇位 | 14 | 壬辰 | 572 | |
用明 | 即天皇位 | 2 | 丙午 | 586 | |
崇峻 | 即天皇之位 | 5 | 戊申 | 588 | |
推古 | 豊裏宮にて即天皇位 | 36 | 癸丑 | 593 | |
舒明 | 即天皇位 | 13 | 己丑 | 629 | |
皇極 | 即天皇位 | 3 | 壬寅 | 642 | |
孝徳 | 壇に登り、即祚 | 10 | 乙巳 | 645 | |
斎明 | 飛鳥板葺宮に即天皇位 | 7 | 乙卯 | 655 | |
天智 | 称制(即位の式 挙げずに)7年 七年に即天皇位 |
10 | 壬戌 | 662 | |
天武 | 壇場を設けて 飛鳥浄御原宮にて 即帝位 |
15 | 癸酉 | 672 | |
持統 | 臨朝称制 4年 即天皇位 |
11 | 丁亥 | 687 | 臨朝称制 |
文武 | 698 |
日本書紀での天皇即位時の記事を分析すると、殆どの天皇は即天皇位なのだが、
例外がある。
「神武」、「允恭」、「天武」---即帝位 、
一体、神武、允恭,天武の三人の天皇の共通点はなんだろうか?分析過程はおいおい明らかにするが、加耶古代史観によるとこれらは新羅系天皇である。
雄略--壇を泊瀬朝倉宮 即天皇位
清寧--壇場を磐余の甕栗にて陟天皇位
武烈--壇場を泊瀬列城宮 ーー設けて陟天皇位
孝徳--壇に登り、即祚
天武--壇場を設けて 飛鳥浄御原宮にて即帝位
これらは「壇」では共通するけれど、即位の表現が微妙に違う。 「壇」は中国皇帝の即位になぞらえているのかもしれない。「加耶古代史観」の分析では、
「雄略、清寧、武烈」-- コムナリ加耶
「孝徳、」 任那加耶
「天武」は任那系-- ミマナ加耶
コムナリ加耶は朝鮮半島「熊津」あたりの出自である。コムナリは古代朝鮮語で熊津
の意味である。
天武天皇は「ミマナ加耶」としても実質新羅人であるから、任那系新羅人とも
いうべきか? 天武天皇の記事は少なくとも「新羅」の色彩が限りなく濃い。