日本書紀での天皇の出自分析

日本書紀は、基本的には倭国をクーデタで倒した「日本建国」集団、なかでも新羅勢力を中心とした歴史書である。
だが、出来上がるまで多年を要したため、新羅の序列は低下している。 結果、本来の任那系の比重が増し、結果、高麗が序列第一となった。
       第一   高麗 ------ 夫餘、 南方呉、倭
       第ニ  百済(プル百済)---北方漢、 夫餘、 南方呉---
       第三   百済(オンジュ百済)-北方漢夫餘
       第四、  新羅------------夫餘南方呉
       第五   新羅 -----------夫餘
       第六   加羅   -------鮮卑北方漢 夫餘 

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高麗(任那)

高麗 ------ 夫餘南方呉+
(任那系)
  粛慎(夫餘、)が北方から南下、遼東半島あたりで海岸部で、南方からの「南方呉」と混交し、南北の融合したもの。 高句麗誕生にも「南方呉」が関連、任那加耶の「賀洛国」も高麗系、朝鮮半島正史ではほとんど抹殺された国。  
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古くは駕洛國の時代、倭では伊都の時代

さらに高句麗が楽浪、帯方郡に進出した頃、4世紀前半仁徳天皇の時代、住吉大社から百舌鳥野へ展開 5世紀後半、最大の前方後円墳等、倭国最強の時代である。

  高麗が具体的に出てくるのは、欽明末期、敏達天皇からである。 大化の改新前後孝徳天皇   

解説などみても、高麗を敵視して解説しているのが多い。 しかし、古代、日本書紀など読んでも、高麗はj序列第一であり、また「神の国」であり、基本的に友好国である。

日本書紀などで加羅を任那と呼ぶ場合もあるが、任那加耶は高麗で、加羅ではない。  

百済

  

              コムナリ加耶(プル百済)---北方漢夫餘+南方呉---
              百済(オンジュ百済)-北方漢+夫餘

 百済二国論で詳しく触れるが、百済には二つルートがある,。 百済は漢が朝鮮4郡を設置以降、漢を主体として、北方かと混交してできる。

  オンジュ百済  ーー漢江流域

  プル百済ーーーーー錦江流域

  沸流プル百済の沸流は海辺に行き、自殺することになっているが、実は、百済系が南方呉と混交して南下し、錦江流域に住まいした。 これらの集団は4世紀後半以降、5世紀にかけての 「応神の大移動」で、倭国へ(応神、雄略天皇)となる。

 コムナリ加耶⇒ 雄略天皇こそ、「倭」と「加耶」を最初に統一した集団

  ただ、残念なことに、雄略は新羅・加羅連合により殲滅されてしまう。 日本書紀は新羅・加羅系の編纂なので、この倭国統一した雄略の評価は甚だ低い。
 
雄略が新羅・加羅に滅ぼされたあと、倭国は混沌となるが、再統一したのは蘇我馬子。 蘇我は、古代から「竹内-平群-蘇我」の一貫とした流れにあり、倭先住の「南方呉」と呼ぶ。

オンジョ百済は、大化の改新前、642年に旧任那を新羅から奪取して、日本への足がかりを掴む。 

舒明天皇- 天智天皇  トムタレ加耶

あとで百済に進出されるが、半島西南部に定住した「トムタレ加耶」がいる。ここは継体天皇、さらに舒明天皇、天智天皇が属する。
 継体天皇  トムタレ加耶 
 舒明天皇、天智天皇  トムタレ加耶系百済人

新羅

  新羅------------夫餘南方呉
  新羅 -----------夫餘

 新羅には3通りの神話があり、ルーツも、朴、昔、金と三系統。  このうち、金氏が新羅の主流として続く。

ここでは新羅は二通り。半島東海経由でくれば粛慎夫餘も案外近い。 

これを見ると、百済系のように「北方漢」が混ざらず、高麗、つまり「任那」に似る。 漢から遠方のことは新羅も倭に似ている。壬申の乱の勝利者、天武天皇は任那系新羅人である。  

允恭天皇、新羅 
天武天皇 任那加耶系新羅人


 允恭天皇は5世紀始め、丁度、半島からは「応神の大移動」がある時期である。 天武天皇は舒明の子で、天智天皇と兄弟になっているが、これは誤り。天武は新羅勢力の巻き返しである。 日本書紀では兄弟間で皇位を争う場面が多々あるが、これらは、出自が異なる集団の闘争にすぎない。

671年、壬申の乱の頃、半島情勢は唐・新羅勢力が増強するが、
日本書紀の完成する頃には新羅系も凋落

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加羅 

          狗邪      鮮卑北方漢 

          加羅   -------鮮卑+北方漢+夫餘 

 鮮卑系(騎馬民族)が中原に入り、北方漢と混交して融合。 これが、物部初期、「狗邪」の姿、後代、朝鮮半島南部で夫餘が混じって、「加羅諸国」が成立。

 朝鮮の正史では殆ど抹殺された集団。 日本書紀では、辛くも掲載。 だが、日本書紀がここでいう任那は本当の任那ではなく、「加羅」であり、日本で言えば「物部連」にあたる。 倭国への移住は古く、2世紀頃、例の卑弥呼は狗邪系移民である。 

 さらに4世紀後半、「加羅諸国七国平定」以降、倭国へ移住、「物部連」として天下に臨む。北河内の磐船神社は、物部連の始祖、ニギハヤヒ降臨の地。 河内に地盤を構えるが、最後は、物部守屋で、蘇我馬子・聖徳太子軍に敗れる。 

狗邪系 --崇神
加羅系ーー垂仁  

加羅諸国には物部のほか、安羅のアラ加耶の「藤原鎌足」がいる。

カラ加耶⇒  履中、反正、顕宗、仁賢。 
アラ加耶   藤原鎌足