誉田御廟山古墳(応神天皇陵)

    応神天皇陵は実は「雄略天皇陵」である

北河内からの道と、和泉からの道の合流

 土師ノ里から南下すると、右手に入っていくと家越しに御陵が見える。堀の直ぐ傍まで人家が迫っていて、堀を見るには、なかなか見えない。 濠の直ぐ傍まで人家があって窮屈な感じ。 とかしている内に、誉田八幡宮で右に入る。

誉田御廟山古墳(応神天皇陵) 5世紀半ばに築かれたとされる。 
 
 墳丘の長さでは仁徳稜古墳に次いで2番目の大きさ。 体積では日本一である。


八幡宮に入り、社殿を真正面に見て、右に入る。 ここから誉田八幡宮から望む。 前方の太鼓橋が「放生橋」、かっては古墳の上まで、神輿が上がっていたらしい。 橋の手前までしか行けない。

 誉田八幡宮の片隅、御陵よりに当宗神社 あり、祭神は、当初、朝鮮の楽浪郡から渡来した当宗忌寸の祖神、「山陽公」を祀っていたようだ。 また朝鮮国王から奉納された石灯篭も在る。

放生橋を見て、御陵の方へ向かうが、先は幼稚園で道が判らず、神社を出て迂回、御陵の山をみて進む。 
 
航空写真〔看板から撮影)
赤い→のところが、誉田八幡宮

 八幡宮を一旦出て、迂回して御陵の方へ向かう。 小さな小川が流れている。 この小川から見れば、やはり「円部」の方が高い。 この川は、津堂城山古墳と伝雄略天皇陵の間を流れている。太古、河内潟から登ってくる道になるかも。 看板の航空写真を見ると、「前方」部のほうは満々と濠に水があるが、「後円」部は大分、干上がっているようである 
 また西側は東側と様相が違い、田園風景である。 ただ向こうにはトラックが行き交う道路が走る。
畑まで空間があるが、堀端まで行けない。 イチジク畑である。 
これらの畑も、太古は濠であったようだ。 前円部まで回るが、なかなか濠は見えない。 
 ここでも交通の要所がある。 応神陵の南部、即ち円部のところである。 野中東の交差点を見
南北には170号線に大型トラックが走る。 西からは、堺、羽曳野線がまっすぐ走る。 古代の武内街道にほぼそろう。 この東西に伸びる道路も興味深い。



誉田山古墳の位置

仁徳稜と応神陵は竹内街道で繋がる


 仁徳稜と応神陵は竹内街道で繋がる。 (反正稜と印尭陵は、丹比道で繋がる。)
 西は仁徳稜の「円」部あたりから発し、ほぼ直線的に東へ、そして応神陵の「円」部あたりまで延びる。 「円」部にのところには誉田八幡宮が控える。 古代の武内街道は、もう少し南、伝日本武尊陵の北側すぐを走る・ 

誉田八幡宮の所在でもわかるが、古墳は交通の要所にある。 仁徳稜古墳でも同様で、「円部」がポイントであった。 誉田八幡宮を出たところに、昔ながらの標識がある。
右 大峰山 
土師ノ里と同様に いずれにしても古市あたりが、この南北、北河内からの道と、摂津からの道が合流するところである。 いずれの地域も古墳は豊富である。 土師ノ里よりは新しいそうだ。
つまり、大和に入るに「竹内超え」をとる。 
また、古市は、駒ヶ谷方面への入り口で、近い飛鳥

コムナリ加耶の進出


 仁徳稜の築はは5世紀半ば、応神陵も同じ時期の5世紀半ばとされる。

記紀の年代は明らかにこれとは合致しない。

加耶古代史観からの分析では5世紀前半の政治情勢は?
   
    任那加耶ーー堺、浅香山から三国    −−−  仁徳 --(
    コムナリ加耶 古市を中心とする羽曳野−−−−雄略、清寧
    加羅     北河内から南下、藤井寺 国府台地 −履中、反正
    新羅     −−ヤマト西の平 −−−−允恭、安康

応神天皇陵は実は「雄略天皇陵」
  雄略天皇は倭国最大時の天皇でありながら、御陵は高鷲にあるが、いかにも貧弱
  応神天皇は具体的に実在しない。半島からのコムナリ加耶の移動を象徴した伝説
  


コムナリ加耶の進出

 ここで、誉田御廟山古墳、伝日本武尊陵、清寧天皇陵とかの円部に注目すると、その交点は古市の高台に繋がる。 古市からは、それらの御陵を見渡せる。 円部」の方を高所にして造作しているようだ。

仁徳の場合は、海上から見えるように、東西に配置した。

 ここ古市が「コムナリ」からやって来た「雄略天皇」の地盤だ。今の行政区域も入り組んでいるが、応神は羽曳野市になる。 そしてこの羽曳野は案外広く、北は、高鷲付近、河内大塚山古墳のあるところまで広がり、東は石川を越えて、駒ヶ谷一体も含む。 


残虐な雄略天皇


加耶古代史観では雄略天皇は倭国最強時の天皇とする。だが、記紀での雄略天皇ノキ債は残虐きわまる。殺し方にはいろいろあるだろうが、誠、残虐ではある。
 ただ、日本書記の編纂は「新羅」中心であり、また加羅系もかんでいること。 かって、新羅や加羅が殲滅された歴史を書くにしても、残虐の極みを書いたのでは?

例えば
日本書紀ではこうだ。

允恭の子供として紹介されている面々はどうなったか?
まず、新羅系安康天皇は-眉輪王(大草香皇子の子、 仁徳の孫)に刺し殺される。この伏線として、根臣の讒言により穴穂は大草香皇子(仁徳の子)を殺しているのだ。) 眉輪王は見事、父の敵をとった。
ついで、木梨軽皇子は暴虐で、物部に逃げるが 自殺。境黒彦皇子は眉輪王と共に円大臣に逃げるが、 共に焼き殺される。さらに、八釣白彦皇子は雄略天皇に斬り殺される、
大泊瀬稚武-、つまり、雄略が生き残る。 この雄略が允恭の子供というのは記紀のねつ造である。兄弟同志で殺し合う場合、実は、各、出身ルーツが異なる場合が多い。

ついで、雄略は(履中天皇の長子----加羅加耶系)市辺押磐皇子を-狩に呼び、射殺すのだ。


古事記の描写はさらに残虐。 
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黒日子王 首の襟を取って、引き出し、刀を抜いて打ち殺す
白日子王 穴を掘り立てるままに埋めて、腰あたりでまで埋められ時、二つの目が抜けて死ぬ
都夫良意美 目弱王を殺して、みずからも首を切る。 
市辺忍歯王  矢を抜きて、任歯王を射落とす、身を切りて、馬のかいば桶に入れて、平地と同じ高さに埋めた。

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雄略、清寧、武烈とくるが、武烈は残虐きわまりなく描写される。

雄略天皇は倭国を統一

      

    任那加耶ーー堺、浅香山から三国    −−−  仁徳、住吉仲皇子、大草香皇子、眉輪王
    コムナリ加耶 古市を中心とする羽曳野−−−−雄略、清寧
    加羅     北河内から南下、藤井寺 国府台地 −履中、反正、市辺押磐皇子
    新羅     −−ヤマト西の平 −−−−允恭、安康


新羅勢力の穴穂は、倭先住加耶の仁徳の子、大草香皇子を殺害。 それの復讐を眉輪王が穴穂(新羅系)を殺し、あだを討つ。 この一連で新羅、仁徳加耶が殲滅する。 さらに雄略」は「加羅」系の市辺押磐皇子を射殺す。 加羅系の子供は避難する。 よって、新羅、加羅、倭先住加耶共々やられてしまい、コムナリ加耶雄略が実権を握る。 

 これだけの雄略天皇の御陵は? あの小さな高鷲なのか?