天智高麗系の強盛
古人は馬子の娘、法提郎娘と舒明との子---倭と日本
大化元年 古人大兄 側
蘇我田口臣川堀、物部朴井連椎子、吉備臣笠臣垂、倭漢文直麻呂、朴市蓁造田来津 謀判
吉備臣は、中大兄へ自首して、 「吉野の古人皇子、蘇我田口臣川堀等と謀判」と密告。中大兄 軍隊(兎田朴室古、高麗宮知)を派遣 古人大市皇子等を討つ。記事は簡単であるが、
天智は何故に古人大兄を殺害したか? 吉野に隠遁したのに。 というか、殺害するために吉野に幽閉したといった方が良い。プル百済系の抹殺に進んだのだろう。
古人討伐後、孝徳は難波へ長柄豊先に遷都し、 2年春に改新の詔勅
大化5年 安倍倉梯麻呂大臣なくなる。--孝徳天皇は朱雀門にて挙哀、慟哭。 皇祖母尊、皇太子等 ことごとく慟哭とある。 安倍は、今後とも北方の蝦夷討伐で働き、その記事も多くなる。 孝徳や皇極との関連が深い。 地盤は「越」
高麗は神の国
孝徳 大化元年 、高麗、百済、新羅と使い。 巨勢徳太臣は、高麗の使いに対して、「 天皇の使わす使いと、高麗の神の子の遣わす使いと、今までは付き合いも短いが、将来は長くしたい。 温和な心をもって、今後とも往来すべし」とある。 ここで高麗は神の子となる。 孝徳は高麗にも近い
この乱は新羅系が仕向けた。!!
大化5年 安倍倉梯麻呂大臣なくなった時、その混乱をついてか、このとき、蘇我日向臣の讒言で、右大臣「倉山田麻呂大臣」の謀叛が発覚
馬子の孫、入鹿の従兄弟 、 大化の改新では中大兄側
蘇我大臣は難波からヤマトへ逃げる。大伴狛連、蘇我日向臣を追討軍として追わせるが、美原町黒山で、蘇我大臣が三男、一娘と、自殺した知らせを受けて、丹比道より還る。 、山田寺にて、法師、赤猪、興志共々 自殺して果てる。妻子や随伴者は、自殺多数
この夕べ、大伴狛連、蘇我日向臣、木臣麻呂、穂積噛臣が寺を囲み、物部ニ田造塩をして大臣の首を斬らせる。たけび、さけびながら、大臣の頭を切る。
連座して殺されたもの ---田口小見筑紫、耳梨道徳、高田醜、雄・額田部湯座連、秦吾寺等、あわせて14人。
絞殺 ---------9人
配流----------15人
この結果、小紫巨勢徳陀臣--左大臣、小紫大伴長徳連 ---右大臣となり、 蘇我の残党整理が進み、新羅勢力が伸張。 新羅大伴主流であるが、蘇我の首を斬った物部ニ田造塩にあるように、蘇我によって殲滅された「物部」の怨念が強い。
それと、倉山田は、叙明即位前期にあるように、山背大兄と田村皇子との争いに中立、また大化の改新では中大兄側。 としても、元来、蘇我の血を引く。
蘇我倉山田麻呂大臣の重宝には、皇太子の物とし、謀叛無きことを後で知る。 皇太子の姫、蘇我造媛、父が斬られることを知り、死んでしまう。
新羅からの人質は、まさに人質ではない。 天武新羅系の強盛
大化2年9月 小徳高向博士黒麻呂(玄理)を新羅に派遣、質を貢ぐよう要請。 さらに任那の調を辞めさせる。
(この頃、任那は百済が領有 642年から、新羅は弱体か?)
大化3年7月 ?上臣大阿?(サン)金春秋を派遣して、小徳高向博士黒麻呂・小山中中臣連押熊を送って、孔雀1隻・オウム1隻を献上。 依って、春秋を質とする。
( 金春秋は、日本から高句麗へわたり、新羅へ帰って文武王となる。 これは単なる人質ではない。)
大化5年4月 大伴長徳連が右大臣に昇進。 久方振りに、新羅勢力は中枢に近づく。
5月 小花下三輪君色夫・大山上掃部連角麻呂を新羅に遣わす。
新羅の王は、沙トク部沙サン金多遂を派遣して質とする。 このとき、従者37人、僧1人、侍郎2人 丞1人、達官郎1人、中客5人、才芸10人、訳語1人、雑16人の計37人。
(こうなると、もはや人質ではなく、支配層に食い込むための前段階。 いよいよ,百済系と新羅系の争いは熾烈を 極める。)
以降、「白雉」(しろいきじ)奉献があり、「白雉」 と元号を変える。
白雉元年4月 新羅 使い 派遣 貢調
その後、人質記事は
斉明元年
及サン弥武を人質 12人を才芸 ただ、「病気で死ぬ」とあり、あっけない。
これ以降、新羅の人質はない。
天武新羅系の強盛
改元は「白雉」が西の方で見つかり、よきさが ということで、改元になる。 そういえば、元号がなるのは「大化」から始まる。 1世1元としたら、途中で改元はおかしくなる。 この意味は??
実は、新羅からの人質「金多遂」が、実質に支配したのか? 加耶古代史観では、天武は新羅人だが、仮説として、
この金多遂が後の天武天皇ではないか? 上記の人質のうち、金春秋は、あと、高句麗へ渡り、唐へも行き、帰国して文武王になる。 金多遂のその後は記載されていない。
改元の動機
人質にしては異例な陣容
さらに、
白雉5年春 紫冠をもって、中臣鎌足連に ----鎌足の初出 新羅と提携して、上昇。
孝徳は大化5年までだが、
持統3年5月の記事によると、「孝徳がなくなったとき、巨勢稲持等を派遣して喪の日を告げる。このとき、金春秋奉勅」とあり、新羅へ喪を告げている。
斎明4年 春 巨勢徳陀臣--左大臣なくなる。
エミシ
皇孫、建王 亡くなる
蝦夷
有馬皇子の謀叛が発覚 ----「天と赤兄とが知っている。 私は全く判らない」と
この辺りは天智の策略であろう。 白雉改元のように、来るべき天武が相当、準備。 蘇我赤兄臣(天智朝の重臣)が、影の主役か、これで、高麗系は終焉。孝徳系(高麗)は終る。
有馬皇子(孝徳天皇の皇子 --安倍倉梯麻呂大臣の娘、小足媛との子)
)
守君大石、坂合部連薬、塩屋連コノシロ 紀温湯へ送る。
丹比小沢連国襲が、「藤白坂」 (和歌山市海南市内海町藤白)で有馬皇子を絞殺、
塩屋連コノシロと舎人新田部連米麻呂を斬殺
守君大石--上毛野国配流
坂合部連薬--尾張配流
ここの配流先を見ると、かっての物部
ここで、粛清(みしはせのくに) の話題 安倍引田臣比羅夫登場して、蝦夷討伐等、具体的になる。
斎明6年9月 百済が新羅・唐連合軍により滅ぶ。 +660年
いぜれにしても、百済滅亡前に、なんの救援依頼もなく、また救援にいく記載もない。 わずか、「左平鬼室福進」が既に滅んだ国を興すとあり、この福進は? このとき百済は「南夫余」という国号。
天智は「オンジュ百済♂+高麗♀」
10月、王子豊璋を迎えて、国の王としたい 」との願い。 救援のため、筑紫に軍備
斎明7年 661年、朝倉橘広庭宮 へ遷都(福岡県朝倉郡朝倉町)
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