これは新羅王子が倭国を訪れる説話だが、古事記では応神記にあり、4世紀後半、日本書紀では垂仁3年(3世紀前半)、 古事記とはかなりの開きがある。この落差はななんであろうか?
古事記でも、日本書紀でも、新羅王子の落ち着く先は「但馬」である。 また古事記では但馬に落ち着いて、その子孫から神功の母が出てくるという。 これは歴史的にもおかしいので、日本書紀での新羅が妥当。
古事記では
新羅勢力の移住は4世紀後半以降となる。 すなわち、ナムルワン以降の夫余系(新羅人)。 この時代も加羅系の移住があるが、「連」と呼ぶ。 加羅は新羅の傭兵となって。
「伊豆志の八前の大神」ーー出石神社の祭神
日本書紀
ナムルワン以前、つまり、鮮卑系(新羅人)も含む。 この鮮卑系は、加羅系初期の狗邪と同じルーツを持つ。 「君」 の集団、 いわゆる邪馬台国集団。 天の日矛伝説は、こちらの方と関係有り。
葉細の珠、足高の珠、鵜鹿鹿の赤玉、出石の刀子、出石の槍、日鏡、熊のヒモロキ、イササの太刀、合わせて八物。
古事記では応神記にあり、4世紀後半
天の日矛伝説
。
新羅の国のある沼でのほとり。 卑しい女が昼ねをしている時、虹のごとく、太陽が輝いて、その陰上を指した。 また卑しい男が怪しんで女の後を追う。 すると、その女は孕んで、赤球を生む。
男はその赤玉を乞う。それを腰につけて行く。
山の中で田を作る。そして、農家の人へ飲食を牛に乗せて山谷に入るとき、天の日矛に出会う。
「何故、飲食を牛にのせて運ぶのか? おまえはこの牛を殺して食べなさい。」いや、私は牛を食べません。 この飲食を運んでいるだけです。それでも、許されず、腰につけた玉を渡して、許してもらう。
天の日矛は、その玉を床に居置けば、即ち、美麗な乙女になる。よって結婚した。 その妻は常に、居色々な珍味を作り、夫に食べさした。 それに対して、妻をののしる。「玉から生まれた女人は「私は貴方の妻になるような女ではありません。私の親の国へ帰ります」として、逃げ帰ったのが難波である。
これが、難波の座す比売碁曾の社に座す阿加流比売神という。 焼肉で有名な鶴橋の近くにある。
比売許曽神社
大阪市東成区東小橋3-8-14
それを追って天の日矛は、難波に至るが、渡りの神が遮って入れず。それで還って但馬国へ留まったという。続いて、系譜の紹介があって、タジマモリ等有り。 タジマヒタカは由良度美を娶り、葛城の高額比売を生む。 (神功の母という)
持ってきたもの
玉津寶といって
珠二貫、浪振る領巾、浪切る領巾、風振る領巾、 風切る領巾、奥津鏡、ヘツ鏡、あわせて八種。 これらは「伊豆志の八前の大神」ーー出石神社の祭神
日本書紀では垂仁3年 新羅系移民の説話 時期としては 3世紀前半 古事記とはかなりの開きがある。
新羅の王子、天日槍来帰とある。持ってきたもの
羽太の玉一個、足高の玉一個、鵜鹿鹿の赤玉一個、出石の小刀一口、出石の鉾一枝、日鏡一面、熊のヒモロキ一具、あわせて七物。 常に但馬国におあり、神の物とする。
以下、ある書の説話が入る。
天の日槍は船に乗って、播磨へ。 三輪の君大友主を遣わし、おまえは何処の国のものぞと問う。「新羅の王子、日本国に聖皇帝いるときいて、自分の国を弟に譲って、化帰」とある。
献上したものは、葉細の珠、足高の珠、鵜鹿鹿の赤玉、出石の刀子、出石の槍、日鏡、熊のヒモロキ、イササの太刀、合わせて八物。
それで、播磨と淡路の二つの村を与える。 天の日槍は諸国を見たいとして、宇治川、北近江、若狭、但馬と住所を定める。
天の日槍は但馬の出嶋の人、太耳が女、マタオを娶る。 よって但馬諸助を生む。 続けて諸助、ヒナラキを生み、ヒナラキは清彦を生み、清彦は田道間守を生む。
但馬の港は「城埼」である。これは、まさに「城」の「埼(みさき)」である。 よく新羅は「シラキ」として、「キ」は「城」ではという説もある。 ここはそれにピッタリ。 新羅は但馬に定住。 古墳があるのは、円山川のもっと上流の出石市の東部山際である。
天の日矛は、当時、入り江湖だった但馬を干拓して、泥を外に出し、農耕を可能にしたとかの伝説がある。 出石神社は出石の北部、町はずれにあり、明るい神社である。 御出石神社は逆に、東南部の町外れにあって、杉林は暗くて、周りは寒村で、場所は判りにくい。ある。 出石は現在では、但馬の小京都として観光で賑わっている。
古代の古墳等遺跡は、城下町があったところの東側山手にある。 大概の古墳は、河の流域、盆地でも、東側の丘陵にあることが多い。
任那人 「ソナカシチ」が国へ帰りたいと言い、、先皇の世に来て、まだ還っていないのか?
国に帰えるに、厚くもてなす。 赤絹一百匹を持たせて、任那の王に賜す。しかし、途中、新羅人が道を遮断、奪ってしまう」 この二つの国の恨みはここに始まる。 これは任那系のお話。
新羅等半島からの土産 「宝石」、「武器」、「熊皮」
丹後からの半島への土産 「絹」
ソナカシチは崇神65年(3世紀始め)、ヤマトへ来る。これは任那系。任那が始めて日本書紀に出てくる時期である。 「任那は筑紫を去ること2余千里、北海をへだてて、鶏林の西南にあり。」 ここでの任那は?
但馬 −−新羅系
丹後ーーー加羅系
が獲る。
とすれば、丹後は古くから絹で有名、但馬は丹後の直ぐ西にある。丹後から半島へ帰るには、但馬の海岸部を通ったに違いない。 この頃の加羅は敦賀経由
但馬に居る 新羅の王子が持ってきた神宝を見たいとして
清彦に神宝を献上するよう。 彼は承り、捧げたものは、「 羽太の玉一個、足高の玉一個、鵜鹿鹿の赤玉一個、日鏡一面、熊のヒモロキ一具。 出石小刀だけは献上したくないので衣に隠していた。 酒を飲むとき、ポロリと落ちる。仕方なく献上。しかし、宝の倉においたはずが、小刀は自ら消える。
清彦に聞くと、昨夜はうちにきたが、消えうせた。その後、刀は淡路島に現れ、神として祭られているという。
刀だけ、
淡路島の由良の生石鼻に出石神社出石の丁度、ずうと南方 、物部初期「君」の移住ルート
続いて、田道間守を常世国へ遣わして、トキジクのカクノミ(橘といわれる)を求めさせる。 田道間守がやっと橘を見つけて帰ってくるが、垂仁は既に死亡、大いに嘆いて天皇陵で慟哭して死ぬ。 これは 以降、三宅連の始祖。---殉葬???
但馬の「田島守」がヤマト西北部の西ノ京「 伝崇仁天皇陵」まで、飛んでしまうのは? あの古墳が「崇仁陵古墳」とするからだ。 でも、「伝崇仁陵古墳」は、実は「允恭天皇陵」の可能性が高い。 崇仁が実在したかどうかは別としても、日本書紀が設定している時代に、前方後円墳はまだ存在しない。 5世紀前半頃の「允恭陵古墳」と考えたほうが判りやすい。 西ノ京は、新羅勢力の地盤だ。
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