宗書倭国伝

倭国の位置 高句麗が起点   
任那と加羅は別の国

「秦韓・募韓」は先住加耶の地
南朝劉宋の交流開始 
倭国 最強の時代 倭の五王--コムナリ加耶
雄略以降 百済の任那侵食

倭国の位置 高句麗が起点  

  中国の歴史書の中で、注目すべきは、「倭国の位置」である。  
後漢書 倭伝   「在韓東南大海中--」 
魏志倭人伝    「
倭人在帯方東南大海--」
宋書 倭国伝   「
倭国在高麗東南大海中--」
随書 倭国伝   「
倭国在百済新羅東南---」
歴史がふるに従い、倭?倭人?倭国と発展、そういえば、魏志倭人伝の頃、3世紀半ばは、まだ国として扱ってもらっていない。 また、書物の書き出しであるが、倭国をどんな位置に見ているか、微妙に違う。今回問題にする「宋書」の場合、起点が高麗なのである。つまり、高麗を起点として倭国へ出かけたことを意味する。 そのころ、高句麗全盛の頃である。

中国の書物に倭国が記載されるタイミング

楽浪、帯方、熊津あたりに中国が進出する時期と合う。もしくは倭国から積極的に交流する時期


後漢 末期  楽浪郡に深く、侵入  
    1世紀半ば、「後漢書、伝」、建武中元2(A.D.57)年、倭奴国   志賀島で発見された金印

  3世紀半ば 帯方郡を獲り、韓半島南部まで進出 
    魏志倭人伝    卑弥呼は、すぐさま使いを送る。 まだ中国からは「国家」として認められて
    いない。

南宋 5世紀初めから後半
   宗書倭国伝  コムナリ加耶にいた「応神--雄略」系が「倭」と「任那」を支配することに
なる。「加耶の全盛期」

中国大陸との交流を。 その拠点は楽浪、帯方郡
朝鮮の地図

南朝劉宋の交流開始 

 この頃の中国は戦国時代の東晋十六国時代(304?439)が終り、北を統一したのは「北魏(鮮卑異民族)」、南を統一したのは東晋(漢民族)。 南北朝(439?589の時代で、少しは戦乱が収まる頃である。

 
南朝劉宋 武帝(420--422)が立つと、倭国と南宋は交流が開始され、 劉宋の最後まで続く。 この倭の五王は応神-雄略に繋がる倭に移住してきたコムナリ加耶系である。 彼らは河内に本拠を持つ。 

倭の五王が交流を開始するのは、コムナリ加耶自身、江南からやってきたことの証
(コムナリ加耶は南方呉系であるから、)

大事な事は、南朝劉宋が始まったときから、終りまでの期間に限り、交流していることである。
コムナリ加耶は記紀では残虐な集団として記載されている。 新羅や加羅から見れば憎い敵である。新羅本流の記紀は、コムナリ加耶と南宋との交流の具体的な面は全く記載していない。

   交流の記事

劉宋第一代武帝 高祖永初ニ年(421年)
劉宋第三代文帝  太祖元嘉二年 (425年)
太祖元嘉二十年( 443年)
太祖元嘉二十八年(451年)
劉宋第四代孝武帝 世祖大明六年(462年)
劉宋第八代順帝   順帝昇明二年(478年)

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、「呉」は故郷である。戦乱時代が終り、自分の故地に統一政権ができたことを大変喜んだであろう。 また自分達も倭に進出し、倭国の政権を握ることになる。
 420年頃といえば、日本書紀では、国内では允尭の時代ではあるが、方や、対外的には、例えば、応神37年 (426年)、阿知使主、都加使主 高麗経由で呉へ派遣されるとあり、「呉、高麗、倭国」の交通路が完成する頃にあたる。 
 応神41年 430年 阿知使主、呉から筑紫へ帰るとある。 またその頃、427年、 高句麗 平壌城へ遷都した頃である。 阿知使主、都加使主は、当初、呉への道が判らず困惑、そのとき、高麗の王が道案内をつけてくれたとある。

記紀は倭国と高句麗の間柄を何故か隠すし、現在の解説者も高句麗を敵対国と見る。

倭国 最強の時代 倭の五王 コムナリ加耶


     日本書紀では、以下のようにはなるが、これに固執すれば、何も判らない。

仁徳

即天皇位

87

癸酉

313

履中

即位

6

庚子

400

反正

即天皇位

6

丙午

406

允恭

乃帝位即

42

壬子

412

安康

即天皇位

3

甲午

454

雄略

即天皇位

23

丁酉

457


 倭の五王は、このうち、応神--雄略のコムナリ加耶系の王の系譜である。
 421年
珍 425年
済 443年
興 462年
武---雄略 462年
いずれも、半島コムナリ加耶系の王である。
倭国まで支配するのは「武」の時代、だから日本書紀との関連で推測できるのは「武」だけ。 
「武」の時代にはコムナリ加耶が半島の熊津から任那と倭を支配、

     仁徳     倭先住 南方呉系集団 、
     履中、反正 加羅加耶
     允尭、安康 新羅加耶

     応神-雄略 コムナリ加耶 

等のまだ群雄割拠である。
   

万世一系から抜け出せない通説では「倭の五王」の正体は見抜けない。仁徳、履中、印恭とかは「倭の五王」とは無関係、 もちろん応神のあとは雄略までは記紀は空白で記載がないのが残念。 
450年頃を考えると
 倭国には、既に半島から新羅系移民(大伴)や加羅系移民(物部)がいて、支配層まで食い込んでおり、今回、さらに、応神ルートを通じて、コムナリからコムナリ加耶がやって来たのだ。倭国が倭と任那全体とあんり、5世紀半ば、倭国の支配地域は最大で、最強の時を迎えている。 

雄略「武」から 百済が外れた訳


462年  倭王世子興  「安東将軍・倭国王とすべし」と  興亡くなり弟武立ち、自ら、「使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・募韓七國諸軍事・安東大将軍・倭国王」と称す。
       南朝劉宋 孝武帝 
478年  南朝劉宋 最後の順帝からは「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・募韓 六國諸軍事・安東大将軍・倭王」に除すとある。

ここでは475年 、漢江百済が高句麗により滅ぼされる大事件あり。これを境に全てが変わる。これにより倭王「武」の領域、任那のコムナリは南下してきた百残に奪われてしまう。
倭国の軍事支配地域から百済が外れる。

任那のうちコムナリが最初に百済に奪われて、この期を機会に、倭王「武」はコムナリを出て、倭国に入る。

     

雄略以降 百済の任那侵食


 書紀では応神天皇のあとは、仁徳天皇となるが、これは日本書紀の潤色である。加耶古代史観では応神-仁徳並列論となり、このふたつの流れが合流するのが「雄略天皇」(457-479)である。 
 もともと、仁徳系と雄略系は同じルーツで、仁徳は「倭」まで、 雄略では半島コムナリ加耶」という風に、分布。 結果、応神は、このふたつをも結びつける事になる。5世紀半ば、倭国は最強の時代を迎える。 

ただ、それは頂上であり、分岐点475年、漢江百済の滅亡を境に、下降をたどる。
 高句麗の南進は収まったものの、今度は逃亡した漢江百済残党がコムナリを獲り、さらに南下して任那を侵食していく過程となる。

倭国でも、先住「仁徳」を始め、コムナリ加耶は順次殲滅されていき(平群も殲滅)、倭国の「加耶」は断絶を迎える。あとは半島南部のみ「加耶」が生き残るが、5世紀後半以降、洛東江河口の加耶には新羅からの攻勢が強くなる。

任那と加羅は別の国

通説では、加羅は任那の1国とされるが、加耶古代史観でも明らかなように、加羅は任那の敵である。 それは、この書物でも明らかにされている。 つまり、任那と加羅は別の国として計算されている。 
          任那   南方呉+沸流百済
          加羅   任那+鮮卑
加羅は洛東江流域を遡っていき、「高霊」に本拠を持つ。369年、七国平定での国は以下のとおりである。

          比自ホ ヒシホ--  - 慶尚南道 昌寧
              南加羅アリヒシノカラ-- ?金海 キメ 
         トクノクニ------?慶尚北道慶山
              安羅  アラ-----------慶尚南道 威安 ハマン
              多羅  タラ-----------慶尚南道 陜川
              卓淳  トクジュン-----慶尚北道 テグ
           加羅  カラ---------- 慶尚北道 高霊 コリョン

加羅は、トクノクニとかを奪取するとき、コムナリ百済や安羅と連合して、新羅を攻撃した。 ただ、洛東江流域では新羅にも近く、新羅との内応も多い。 加羅は殆どの期間を「親新羅」で過ごした。 

      新羅系加耶は定着地が新羅で新羅系加耶と呼ばれる。これは2世紀頃。
    この系統は倭国では、有名な「卑弥呼」、俗に、日本書紀でいう「君」、物部のはしりである。  


倭国では、加羅系移民(物部)は5世紀になって倭先住と敵対、新羅系移民と連合して、倭先住を殲滅した。 

半島の加羅は最後の土壇場で新羅に反逆し、562年、滅ぼされる。 一方、倭国の加羅系移民(物部)は蘇我、聖徳連合軍(高句麗系先住加耶)に殲滅されて終る。
 高句麗の石碑の中に「任那加羅」と出てくるそうだが、捏造うんぬんはここでは議論しないが、あれは通説では「任那加羅」一国とされるが、「任那と加羅」の二国を指している。

「秦韓・募韓」は加耶の地

これらは南朝鮮三韓のひとつで、
任那(加耶)    弁韓 ?(狗耶国  
秦韓 ---任那の東側 辰韓 (サロ国は新羅へ発展)
募韓----任那の西側  馬韓五十余国  (伯済国となる。 

任那ー任那加耶

ここでは弁韓は「任那」で置き換わっているが、「秦韓・募韓」はそのままで、通説では、おかしいとして相手にもしていないが。  

募韓-トムタレ加耶
百済が半島南部まで進出するのは「継体天皇」の時期である。 5世紀半ばでも、半島南部は百済領ではなく、馬韓先住加耶があったことになる。 加耶古代史観では「トムタレ加耶」と呼ぶ。
神功 、応神の分析により、日本書紀の言う「百済」は「コムナリ」(錦江流域 熊津先住加耶)のことが判る。 この頃、コムナリは加羅と共同して新羅を攻撃するとともに、任那から半島南部の海岸を奪った。 

 このコムナリに雄略時代475年、百済遷都。 さらに継体天皇の時、やっと百済は半島南部をトムタレ加耶から奪い、南部海岸へ進出する。

秦韓ーシラギ加耶
これには新羅が関係、 新羅は、最後の勝利者(672年 壬申の乱で勝利)
  5世紀初めには、新羅は慶州平野に進出 。半島南部(洛東江東岸)は新羅系加耶 秦韓シラギ加耶が住む。

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資料―1

5世紀当時、倭、百済、新羅、高句麗が中国からどのような册封。 
まず、資料的に書くと、

倭 
421年  倭讃 除授を給うべし
425年   讃 表を奉り万物を献上。 讃亡くなり弟珍立つ。

      珍は、自ら使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・募韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称した      が、南朝劉宋 文帝から 珍に「安東将軍・倭国王」に除すとある
    
443年      南朝劉宋 文帝  倭国王済 奉献 よって「安東将軍・倭国王」と成す。
451年  「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・募韓六国諸軍事」を加えられて 済は 「使持節・都督・倭      新羅任那加羅秦韓募韓六国諸軍事・安東将軍・倭国王」となる。 
      済亡くなり、世子興 

462年  倭王世子興  「安東将軍・倭国王とすべし」と  興亡くなり弟武立ち、自ら、「使持節・都督・倭・百済      ・新羅・任那・加羅・秦韓・募韓七國諸軍事・安東大将軍・倭国王」と称す。
       南朝劉宋 孝武帝 
478年  南朝劉宋 最後の順帝からは「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・募韓 六國諸軍事・安東大       将軍・倭王」に除すとある。

百済 

416年 東普 安帝から「使持節・都督・百済諸軍事・鎮東将軍、百済王」
420年 南朝劉宋の文皇帝 から先王の爵号を册命・授与した。
472年 北魏の孝文帝に 高句麗討伐を請願

高句麗
463年 宋の孝武皇帝は長寿王を「車騎大将軍・開府儀同三司」に册封した。
478年 宋に使者492年 北魏孝文帝から 「使持節・都督遼東諸軍事・征東将軍・鎮護東夷中郎将・遼東郡開国公・高句麗王に册命

新羅本紀には、この頃の册封は見られず、ずつと後になって、
662年              唐になって、文武王の時、「開府儀同三司・上柱開・楽浪郡主・新羅王」である。
663年  
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資料―2

三国史百済本紀
     ケロ王     455--475
     昆支  
     文周王    475--477
     東城王     三斤王 
     479--501        477--479
     武寧王 501--523

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資料―3
13 高句麗 楽浪郡を滅亡させる
314 高句麗 帯方郡を滅ぼす----中国の郡県支配終わる。
    百済 高句麗の平壌城を攻撃、高句麗王戦死  百済ソウルに遷都
372 高句麗に仏教伝来
384 百済に 仏教伝来
391 高句麗 広開土王即位 ---
400 高句麗 南部出兵 
427 高句麗 平壌城へ遷都
433 新羅、百済 同盟
475 高句麗 百済を攻撃、百済王殺す。(文周王  百済熊津城まで後退 公州へ遷都)
新羅 国号と王号を定める。
520 新羅 律令を頒布 百官の公服を制定
527 新羅 仏教を公認
532 新羅 金管加耶 併合
538 百済 扶余 遷都。国号を南扶余とする。
545 新羅 国史を編纂
552 百済より仏教伝来
562 新羅 加羅諸国 滅亡
586 高句麗 長安城に遷都

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