推古天皇 倭国統一

 蘇我と物部の宗教対立----


蘇我馬子宿禰大臣を特徴づけるのは、なんといっても物部、中臣との宗教戦争である。というのも、コムナリ加耶雄略天皇系が滅ぼされた後、新羅・加羅連合が倭国を支配した。 半島にいたコムナリ加耶「継体天皇」がやってきて、加羅(物部)とともに加耶の国を継続する。

 物部はすぐさま、継体カヤを殲滅、欽明時代、加羅が倭国を握る。 それに対抗してここで登場するのが、最後の加耶系の蘇我稲目である。 
   ここでの図式は
     加耶系  蘇我           倭+呉+夫餘 
     加羅系  物部 加羅       鮮卑北方漢+夫餘 

欽明 大伴金村大連 物部尾興大連 蘇我稲目宿禰大臣
敏達 物部弓削守屋大連 蘇我馬子宿禰大臣
用明 蘇我馬子宿禰大臣 物部弓削守屋大連
崇峻 蘇我馬子宿禰大臣
推古

物部の反仏闘争の原動力

  用明  三宝に頼る
  物部 守屋大連、中臣勝海連 --- 「なんぜ、国神に叛いて、他の神を拝むのか? 」
  蘇我  
    物部  ---加羅系移民、  中臣   --安羅系移民  、

 加羅系は何故、反仏なのだろうかか? また偶像崇拝を禁止するのは? 大陸では、仏教伝来のもとは鮮卑系の「北魏」。 北魏前半は「道教」の傾斜して反仏、北魏後半は今度は崇仏である。時代によりけり。

       加羅=鮮卑+北方漢+夫餘  

思えば、現在の神道にしても、発祥はこのあたりか? 物部は敗北はしたものの、日本的文化(良かれ、悪しかれ)は継承している
  騎馬民族始め、大陸のj北方民族が渡海に対しての、海神,航海神
  遊牧   ---四季おりおりの移ろいのなかで、自然信仰
  体制派として、異郷からの仏教等は受け付けず

   

蘇我馬子 崇峻暗殺---鮮卑系を殲滅

 蘇我は何処からきたか?

1、竹内、平群、蘇我と一連の流れは確かなものか? 
   例えば  竹内---仁徳
         平群---雄略
と提携して進んできた。 仁徳天皇(高麗系」)の時代からすると、高句麗の国ができる以前から存在するとしたら、「夫余」か? 

一つの答えは 加耶系は「倭+呉+夫餘」となるが、この構成要素の「夫余」では?
   馬子
   蝦夷
   入鹿
名前を見ても、「北」の源流?  粛清

崇峻のもとは欽明朝で、欽明は、加羅系(物部)と継体加耶との融合であるので、「鮮卑」系が混じる。 高麗系の蘇我から見れば、「鮮卑」も血の混じる、崇峻系も殲滅すべきであった。  これで、加羅系の終焉である。
   加羅=鮮卑+北方漢+夫餘 

2.
 推古の時代は、蘇我馬子が崇峻を暗殺、覇権を握る。 倭国完成の絶頂期とも、また倭国最後の時代とも言える。 古事記はここで完結する。蘇我は悪し様にかかれるが、飛鳥時代という名前の通り、一大時期を形成したのだ。

一方、大化の改新で、蘇我蝦夷、入鹿が暗殺されたあとの、天皇が「孝徳天皇」は?、高麗系 


推古の歴史

三度拒んで、
厩戸豊聡耳皇子を皇太子   --摂政


四天王寺を難波の荒陵に作る
3年 高麗僧慧慈 帰化
百済僧 慧聡   二人は三宝の棟梁 
4年冬  法興寺 作り終る。
5年 夏 百済の王、王子阿佐 

吉士磐金を新羅へ   カササギを持って帰る,。
6年秋  新羅 孔雀
7年秋 百済 駱駝、ロバ、羊、白キギス
8年春  任那と新羅 相攻める。 

    境部臣大将軍 
    穂積臣 副将軍
 万余り 新羅遠征  

9年 春 百済、高麗に任那救援を要請

10年 春 来目皇子 新羅を討つ将軍  軍衆二万五千  病にして打てず。
  冬 百済僧 観勒 暦、天文地理 
     高麗 僧 隆、雲聡 来帰 
11年初春  久目皇子 亡くなる。 
11年 夏 当摩皇子を新羅征討将軍  難波より出発、播磨に来たとき、妻舎人親王 赤石で亡くなる。
  ついに討てず帰る。
13ね 夏  高麗国 大興王 仏像作る 黄金三百両貢
14年 丈六の仏像 元興寺の金堂へ 
14年秋 法華経を岡本宮で講義
15年秋  大礼 小野臣妹子を大唐へ
16年夏 小野妹子帰る 大唐からハイ清世 等来客
  大唐へ派遣    学生倭漢直福因、奈羅訳語恵明、高向漢人玄理、新漢人大 、 学問僧新漢人日モン、南淵漢人請安、志賀漢人慧穏、新漢人広済等 八人

   今年、新羅人 多く化来
18年ッ冬 新羅と任那の使いを呼ぶ
23年 高麗 僧  慧慈 国に帰る

26年 高麗から使い 隋を撃退したとの知らせ 618年
29年 聖徳太子 なくなる
30年 新羅から上表  仏像 葛野の秦寺へ  このとき、大唐へ行っていた学問僧が新羅の使いとともに帰る
31年  夏  今年、新羅、任那を討つ。 任那、新羅につく。
  
 任那救援  大徳境部臣雄摩呂、小徳中臣連国を大将軍  数万の衆を率いて新羅を討つが、果たせず。 

34年  蘇我馬子(稲目の子) 亡くなる
36年秋 推古 終る
 
 百済・高麗から僧多く、高麗からは仏像製作のため寄付あり。 

  任那復興に関しては、倭国から軍隊を派遣しようとして、新羅と幾たびか交戦しようとするが、途中で何かが起こり、挫折している。 これは、時代の流れは新羅主流であり、その新羅に対して、任那奪還を叫ぶのは、力不足。 また大唐(隋)との外交も熱心だが、主体は新羅勢力で、唐から新羅経由で倭国へ戻る。

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