舒明 以降

舒明天皇の時代は、蘇我蝦夷のみ大臣である。これは?
    両者とも高麗系? 

舒明 蘇我蝦夷大臣
皇極 蘇我蝦夷大臣
孝徳 安倍内麻呂 左大臣

巨勢徳陀古 
蘇我倉山田石川麻呂 右大臣

大伴長徳 
中臣鎌子 内
斎明
天智 蘇我赤兄臣 左大臣 中臣金 右大臣 蘇我果安、巨勢人、紀大人
天武 ??
持統
ここで「連」とつくのは朝鮮半島の新羅や百済系。 「臣」は古代からの加耶系である。ただ、鎌子のみ、「連」と言いながら「内臣」とか、特別扱い?

        

大化の改新クーデタ

大化の改新前後でいえば、皇位継承争いは
         

        蘇我系  --古人大兄 --- 
        孝徳(軽皇子)、皇極
        舒明 ----中大兄(中大兄から見れば、孝徳はおじさん)  の構図
このうち


(倭国) 
       欽明-推古-崇峻
       蘇我   ------------高麗系--(宣化系統)
            蝦夷、入鹿- 
            -古人大兄-(蘇我+舒明)
            倉山田----蘇我の出だが、中立態度。

       聖徳太子--
            --山背大兄


       安倍臣---安倍内臣鳥 推古時代から蘇我と親密? --高麗系
       中臣宮地連鳥麿呂。中臣連国---------百済系
       境部臣摩理勢
       田中臣---考元記に蘇我石川宿禰を田中臣の祖 (馬子の兄弟?) 彼の助言で新羅を討つの を止める。  反百済的発言(百済は信用ならないと) 
     新羅大伴は 舒明即位前期、皇位継承では舒明側である。


日本国)
    
蘇我に排斥された倭国集団、[物部、中臣])が復活する。
          
           物部  壬申の乱では天武方(新羅)
           中臣  壬申の乱   天智側  (只、中臣鎌子は中立)
      
新たに、朝鮮半島からやって来た日本建国集団
    高麗、--(敏達系統)--孝徳(軽皇子)、皇極(斉明)  ---(安倍)--日本海経由 夫余
             
             舒明(田村皇子)--中大兄 
-----西海岸経由 夫余
    百済------中臣鎌足        
    新羅 -----天武  -大伴連は倭国時代から 

結果 孝徳天皇

大化の改新前後でいえば、皇位継承争いは
         
    高麗 蘇我系  --古人大兄 --- 
        孝徳(軽皇子)、皇極
        舒明 ----中大兄(中大兄から見れば、孝徳はおじさん)
        
の構図

  このうち、新来高麗の孝徳が獲る。 しばらくして、加耶高麗の血が混じる「古人大兄」は謀叛とかで殲滅れ、孝徳系が全面的に権力を握ることになる。 その背景には新羅、百済勢力が控える。
でも孝徳の出自は?

  日本書紀によると、孝徳天皇は敏達天皇の「ひ孫」にあたり、元来、敏達当時にやってきた高麗系に通じる。 日本書紀の欽明の最後に、 今までの任那復興会議の記事とは全く違う趣の、「高麗からの難破の説話」が挿入されている。 高句麗としては具体的な記事。 これは日本海「越」への漂着で、後代の「渤海」から日本海を渡ってきた集団。 

次の敏達からは、早速、「高麗の使い、いずこにおるか?」 相楽の館におると聞いて、大変、悲しむ。以降、高麗からは 2年夏 越海の岸 船破れておぼれる者多し。--送りに船を
         3年夏 越海の岸 
と続けて高麗から渡海の記事。
 
(参考)渤海は朝鮮半島北部から中国東北地方南部、ロシア沿海地方南部を領域とし、698年に建国された。北方民族の靺鞨人と朝鮮半島北部に本拠を持つ高句麗人が複合して樹立した国

敏達 出自 渤海 

 蘇我は宣化の時代からだから、蘇我の方がやや早い。 蘇我は高麗でも、「竹内-平群」の系統で、朝鮮半島の付け根から西海岸を経由しての移住集団 である。 出発点は夫余であるが、途中、混交の可能性がり、純粋な「夫余」ではない。  

 一方、孝徳系(渤海)のように日本海を直接渡るのは高句麗の北部、粛慎に近い。この高句麗と靺鞨を含めた大きな国を「高麗」とする。 すなわち、後の渤海である。
孝徳天皇の時代、日本書紀の記述をみて行政的な具体的な記事が多い。 これは大陸で、唐との関連が強いことが判る。

天智天皇も高麗(渤海)系 

  孝徳なき後は、次は皇極女帝で、各勢力は均衡。 皇極なきあとは、やっと天智になる、。 こうみると、高麗系が順次いなくなり、中大兄しかいなくなった時、始めて天智天皇となれる。 
天智は高麗系?
 推古の時代から来ていると思われる。 当時は高麗との通行も多い。舒明は敏達の孫で、孝徳と同じように高麗系(渤海)である。 

高麗、--(敏達系統)--孝徳(軽皇子)、皇極(斉明)  ---(安倍)--日本海経由 高麗
               舒明(田村皇子)--中大兄 
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一方、中臣鎌子は百済国に従順する。中臣系統でも、壬申の乱をみても天智方についているが、この中臣は一時、避難、天武系統が凋落するまで、待機している。


壇場--呉系の復活

      たかみくらを設けるのは中国の皇帝を連想させる。
孝徳
壇に登り、即祚 10 乙巳 645 壇に登り 大伴長徳連、犬上健部君
 孝徳を担いでいるのはまさに新羅勢力である。ここの表現等みると、記紀神話で、天孫降臨してくる場面を連想する。 孝徳は加耶ではない。 
壇場を設けて
が登場する天皇は 雄略、清寧、武烈、 孝徳、天武 である。  雄略系統は「南方呉」であるのは確実で、孝徳、天武に繋がるのは何故か? 呉系コムナリ加耶の復活?? この頃は、唐-渤海-新羅-のルート??

神話と大化の改新

   例えば、 これは「天武」より、「孝徳」を連想させる。
j神代記天孫降臨では、
高皇産尊が「 真床覆衾」をニニギノ尊に着せて、大伴連の遠祖天忍日命 は天磐ユキを負って天孫の前に立ち、来目部の遠祖 天串津大来目を率いて随伴者は古墳時代の軍人の装いで降る。 行き先は 「日向襲高千穂?日二上峯」は、まさしく「襲」の国、後の日向に定着する。

ここで、高皇産尊は新羅勢力で、ニニギノ尊は? 古墳時代の出で立ちだから、5世紀始めころの允恭のころか?

大化の改新クーデタでは、 孝徳の即位時、

 即、壇に登り、即祚
大伴長徳連、金のユキを帯びて、壇タカミクラの右に、立つ。 犬上健部君 金のユキを帯びて、壇タカミクッラの左にたつ。 (ユキとは古墳時代の盛ん、矢を盛り、背に背負う武具)
とあり、天孫降臨の舞台に似る。 天武の時はこういう画面はない。


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