加耶古代史 天皇陵の謎 解明
各勢力の棲み分け
各勢力の伸張と較べて、天皇陵を比較検討する。各勢力はうまく住み分けている。
5世紀の頃の勢力分布。基本は各勢力が複数で拮抗、生活は各地域毎に住む分けているし、古墳も自分たちの生活している近くに造営した。
倭に先住していたのは
(1)「任那加耶」で「仁徳」に代表される集団 。場所は上町台地から百舌鳥野方面
(2) ヤマトには、東南部や北西部に、
渡来してきた卑弥呼集団− 鮮卑系
在地の土着勢力---------南方呉系
一方、朝鮮半島から「応神大移動」でやってきた集団には、コムナリ加耶、加羅加耶、新羅等がある。
彼らはどこあたりに生活していったか?
(1)加羅加耶--物部 河内北部から藤井寺周辺
(2)コムナリ加耶--応神、雄略 古市、羽曳野周辺
(3)新羅 允恭、安康 ヤマト西の京
和泉
任那加耶 仁徳天皇
百舌鳥古墳群
(1)
加耶古代史観でよく見れば、仁徳の子供とされてはいるが、実はそうではない。
住吉仲皇子、大草加皇子は確かに仁徳系であるが、「履中、反正」は加羅加耶、「允恭」は新羅系である。こういった風に、子供の最後の方は敵対している別な集団をいかにも子供のように追加して殺し合いをさせるのは記紀の常套手段である。最たるものは天智天皇と天武天皇である。
天智 ---コムナリ加耶
天武 ----新羅加耶
と全く、敵対集団である。
仁徳の流れを汲む任那加耶では、大山陵古墳はこの系統の頂点(5世紀半ば)で、周辺の古墳は、これ任那加耶の御陵である。
「仁徳天皇」が実在したかどうかは定かではない。 ただ、「仁徳」以降、任那加耶の一族は百舌鳥野に御陵を造作したことは確かであろう。 この倭加耶は住吉に上陸、4世紀以降、上町台地を地盤として栄える。 次いで、上町台地を南下、百舌鳥野に進出。 都の南大門から東へまっすぐ延びる大道(丹比道)を造る。
4世紀後半は、倭国は一大転機を迎える。 おりしも半島では「加羅加耶」と「コムナリ百済」が同盟、新羅を攻める時期で、倭国は5世紀初め頃、新羅、百済から人質を取るほど強大になった。 古墳の最初は5世紀初め、「百舌鳥野の北側に古墳を造成、田出井山古墳である。
それは「丹比道」である。 ここから、真東に一直線、丹比道が石川と大和川の合流点に向かっている。 その合流点の直ぐ手前、国府台地に[市の山古墳」がある。 5世紀初めには、半島から進出していきた加羅加耶は大和への入り口、丹比あたりをを押さえる。
履中、反正 加羅加耶
5世紀半ば以降は半島コムナリ加耶からの雄略天皇が優勢。だが、実力は伯仲している和泉に最大の前方後円墳、大山古墳が出来るが、これら百舌鳥野の古墳群は任那加耶の御陵である。
履中、反正は「加羅加耶系」で、地盤は河内丹比方面で、全く別集団である。
半島からやって来た加羅加耶は、コムナリ加耶と連携して「住吉仲皇子」を殺害、さらに「大草香皇子」は新羅勢力の計略により殺害されてしまい、倭先住カ「仁徳」は滅んでしまう。
記紀では、仁徳を慈悲深い天皇として書いている。 それは任那加耶の本流であり、(高麗系であり、崇めなければという気持ちであろう。
履中、反正はどこにいるか? 彼らは「加羅加耶」系、すなわち、「物部」である。 河内が地盤となる。
河内国 石川と大和川合流地点 国府台地 市の山古墳 (5世紀後半?)
応神コムナリ百済と加羅加耶は同盟して来たから、地域も近いはずである。
加羅加耶は応神の近くとして、「履仲、反正」の間柄を考えると、市の山古墳を履仲、仲津姫陵を反正に当てるのは当たっているかと思う。 加羅加耶は物部系で、北河内から南下、後、この辺一体を地盤とする。 ここで丹比道と交差する。
丹比道周辺には、大塚山古墳、岡ミサンザイ古墳とか比較的大きいのがある。 また周辺には無数の溜池がある。 天皇陵の濠も、灌漑用水として利用されたことは疑いない。
造作は5世紀後半としたら、記紀の年代が合わぬ。 履中、反正、印恭は年代的にも近いはず 加羅加耶は新羅に屈服したので、自分自身は大和に入れず、河内の地盤のまま。 一方、允恭天応は明らかに、新羅系で、神武東征のモデルであるので、大和に御陵がなければならない
コムナリ加耶 雄略天皇
誉田山古墳 (応神天皇陵)は 5世紀半ば造作と言われる。 仁徳稜とされる大山古墳と同時期なのだ。 また周りの古墳が5世紀後半以降、6世紀にかけてと言われる。
任那加耶の「仁徳朝」と、コムナリ加耶の「雄略朝」が併存したという加耶古代史観で言えば古墳の造作が同じ頃なるのも合点がいく。
応神の記事は平穏、内容は半島のことが殆どで、河内での現実はどこにも無い。
、記紀の年では、5世紀の半ば近い頃だが、、。 応神は半島コムナリ加耶であり、当初は「加羅加耶、新羅」とかと共存して倭国に渡ってきた。 記紀でも応神は半島からの流れの過程とか、半島の情勢が主で、仁徳のように、倭国を建設した具体的な作業はない。
はたして応神が伝説だけで、実在しないならば、ここは「雄略」の可能性が大きい。
雄略天皇陵とされる「高鷲丸山古墳+平塚古墳」は誠に貧弱であり、丹比道がよけて通るとすれば、造作されたこの古墳の年代は4世紀末か5世紀初頭で、全く年代が合わない。
雄略天皇の残虐性のリアル
ところが、雄略の記事は殺戮で始まり、まことにリアルである。
木梨軽皇子、---暴虐 物部に逃げる 自殺(穴穂
境黒彦皇子、--眉輪王と共に円大臣に逃げる。 共に焼き殺される。
安康天皇、 ---眉輪王(大草香皇子の子、 仁徳の孫)に刺し殺される。
この前に根臣の讒言により穴穂は大草香皇子を殺す。
八釣白彦皇子--雄略に斬り殺される、
大泊瀬稚武----結局、雄略が生き残る。
新羅勢力の穴穂は、倭先住加耶の仁徳の子、大草香皇子を殺害。 それの復讐を眉輪王が穴穂(新羅系)を殺し、あだを討つ。 この一連で新羅、任那加耶が殲滅する。 さらに雄略」は「加羅」系の市辺押磐皇子を射殺す。 よって、新羅、加羅、任那加耶共々やられてしまい、コムナリ加耶系雄略天皇が実権を握る。
古事記の描写はさらに残虐で、雄略天皇に対する怨念はすごい。
誉田御廟山古墳は「雄略天皇陵 」!
コムナリ加耶の雄略は、新羅系、加羅加耶、任那加耶等多数、殺戮して権力を握る。 倭と任那を合体して、倭国最大の時を迎えた。残虐としても、これは争い、勝利した雄略天皇は倭国を最大なものとした。 5世紀半ば、倭国和泉には巨大な大山古墳が出来上がり、それら倭と任那を統合した雄略天皇陵はそれに匹敵するくらい規模が大きくなければならない。
しかし、日本書紀や古事記では悪しき天皇として書かれるし、 御陵も貧弱なものだ。 また「武烈」もコムナリ加耶百済系であるが、まこと残虐な天皇として書かれている。いずれも殲滅した敵であるゆえ、描写も酷である。
任那加耶、加羅加耶や新羅から見ても、憎き敵となる。 現実は強大な倭国が出来たけれど、後代、記紀を書く段階になって、雄略は低い地位に落とされた。
周囲にある「岡ミサンザイ古墳」とか、古市周辺は「コムナリ加耶」の移住であろう。 応神は雄略に繋がるものであるが、誉田山古墳は雄略天皇陵と考える。 雄略天皇の子供、清寧天皇陵もここに近い。
大和
崇神天皇陵、
大和先住加耶 東部、東南部
大和南部 カモ、ミワは 卑弥呼移住集団である。筑紫邪馬台国と同類、大和への移住。 崇神とするのは年代に会わないと思うが、古墳の造営はそれらの一族が後代作ったものだろう。前方後円墳のルーツはこのあたりにある。
前方後方墳は前方後円墳よりも古く、それは和爾臣とかと関連があるかな? 山間の見晴らしの良い尾根筋に作られたようだ。
一方、前方後円墳は「狗邪+南方呉」系の象徴かもしれない。 どちらかというと平地に造営されている。また、ため池としても使われるようになっている。
允恭天皇陵
新羅からの移住
大和国
西北部 「垂仁陵古墳」が当たる。 垂仁の時代は、まだこの辺には移住は無く、もっぱら大和東南部であった。 確かに垂任は「加羅」からの移住を匂わせているが。
西の京は「新羅」勢力の地盤である。 あれは、大和平定した新羅系「印恭天皇陵」ではないかと考えている。 5世紀では、既に新羅勢力は大和へ入っているし、和泉や河内で巨大な前方後円墳が出来ているのに、このあたりに無いのはおかしい。 第一、子供の安康天皇の御陵も近い。
また「田道間守」の話、 是三宅連の始祖とある。 日本書紀の解説によると、三宅連は新羅国王子天日鉾命の後とあり、同じ新羅系である。 新羅系は加羅加耶の力を借りて、大和平定したので、允尭天皇陵は大和にあるはず。 允恭の子供、安康天皇陵も近い。
記紀による垂仁の時代は3世紀初めの頃、まだ前方後円墳は存在しない。記紀の編纂時は、そんな時代設定もなく、「東」から「西」へと当てはめただけ。 ちなみに大和北部は「トミ」等の倭先住加耶の御陵。 残念ながら、「トミ」は新羅と加羅によって滅ぼされた。