對海國方可四百餘里 一大國方可三百里 の謎???
(1)筑紫伊都から賀洛任那まで 對海 、一大 任那系 「呉」 神功ルート北上
(2) 狗邪韓から、対馬、壱岐 、奴へ
狗邪系 「魏」 ー卑弥呼勢力 狗邪韓国⇒奴 南下
(3)「沖ノ島から宗像へ 新羅系 日本国建国集団の渡海路
釜山から宗像 加羅加耶 ルート
仮説 3通りの渡海路
(1)赤線 呼子から壱岐 、壱岐から対馬厳原へと島伝いに
、古代最初の渡海路 ( 神功ルート)
(2)青線 巨済島北岸から対馬、壱岐、奴 へ、、
狗邪韓の古代ルート (卑弥呼ルート)
(3)緑線 金海(プサン)、沖ノ島、宗像で 最短距離、 新羅勢力 渡海
沖ノ島から博多に向かうのは、ジェットフォイルのルート(帰路)
始度一海千餘里至對海國其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乘船南北市糴又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴
魏志倭人伝では、狗邪韓、對海、一大、末慮と渡るが、島間隔の距離は「千余里」と同じ距離に記載されている。 厳密には等距離でないにしても、魏志倭人伝の表示は大体同じ位の距離感覚である。
試しに、呼子から釜山まで島伝いにフェリーやジェットフォイルに乗ってみたが、航路距離の比で言えば、釜山-対馬-壱岐-末羅は「2:1:0.5」である。 この違いは何であろうか?
現在の航路では島間隔は同じにはならない。
考え方としては、
(1)対馬-釜山の間はその半分は對馬の東海岸沿いに走るので計算外かもわからない。島伝いの距離を省くと、釜山-対馬の距離は対馬-壱岐と同じになりそうだが、。
(2)対馬北端から、ますっぐ南へ渡海して、一大を目指す。
こうすると、島の間隔は同じくらいになるかもしれないが、そうなっても魏志倭人伝の「對海」、「一大」の大きさが問題となる。
對海が「対馬」、一大国が「壱岐島」と仮定して、
魏志倭人伝のいうように、対馬が方可四百餘里、壱岐島が方可三百里では、両者の大きさは4対3位で大して差は無い。しかし、実際はみてのとおり、対馬が壱岐島よりはるかに大きい。もし対馬東海岸沿いに航海すれば、対馬のような島の大きさは容易に判ったろうに。 つまり、対馬の本当の大きさが判らないのは、この航路を取っていないのでは? いや対馬の北西方向から来ても島の大きさは判るはずだが、、? また対馬北端からまっすぐ南へ壱岐に向かったとしても、対馬の大きさは判る。 對海と一大との比較で、その大きさが大差ない地点とは?
そこで、対馬の南だけを考え、対馬(南)と壱岐島を比較すると、對海国、一大国の大きさは魏志倭人伝の表現に近くなる勘定。魏志倭人伝のいう「對海国」は南の方だけなのだ。
渡海路の違いにより、
私の加耶古代史観から導かれた
狗邪系 奴、⇒ 「魏」
任那系 末羅、伊都 ⇒「漢」
狗奴国 ⇒ 「呉」
「對海 一大」⇒任那系--「漢」
「対馬、壱岐」⇒ 狗邪系--「魏」 -
の「狗邪、任那二大勢力論」を踏まえると、
任那系 --金海から対馬(北部)對海國へ、東岸沿を航海
狗邪系 --巨済島から対馬(南部)對馬國へ渡海、浅茅湾から船越を超えて東岸へ
對海----[海]に対する
對馬----[馬]に対する
對海國方可四百餘里 一大國方可三百里
対海とは? 誤植かも分からないが?
対海とは「海に向かう」これは対馬(上対馬)あたりから東方をみるにこの島の位置関係を。
また対馬は「馬にむかう」
魏志倭人伝ではあたかも「對海国、一大国」と渡海したように書いているが、実際はそうではない。 上の「狗邪系渡航路」を考えると、彼ら、魏勢力は「対馬、壱岐」と渡らねばなrない。つまり、現実には對馬国--今の対馬(南)から「壱岐」へと。
浅茅湾の「茅」は「カヤ」!!!「狗邪」は「クヤ」と読めば似てくるな。
ワダツミ神社のある浅茅湾 対馬は殆ど山がち、この浅茅湾は停泊地にピッタリ!!!
金海から南下する場合は当然、対馬東岸に沿って南下するので、浅茅湾には入らず。
この「狗邪」と「任那」の渡海路の違いは「住吉神社」の考察でも明らかになるが、別項で。
一大、壱岐の場合はどうか? これも上の考え方でいける。
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狗邪系 壱岐島(壱岐)東北部 對馬⇒壱岐⇒奴
任那系 壱岐島(一大)南部 對海⇒一大 ⇒末羅
平地は一大、南部の方に広がっている。
印通寺、郷の浦--
芦辺町 --------
ここでも魏志倭人伝は「對海国」から「一大国」に渡海したことに書いているが、実際は「狗邪系」の渡海路、すなわち、
對馬(対馬南部)から壱岐(壱岐島東北部)へ
この島の名前がそれぞれ呼び方がちがったのではないか? 後の時代、卑弥呼が主導権を握ったあと、島は「狗邪系」の「壱岐」になった。
卑弥呼の勝利により、
本来は「對海、一大」であったものが、「對馬、壱岐」と変わってしまったわけだ。
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里
、「半島」のどこから? 渡海路を考察」することにより、おのずから「狗邪韓国」はどこか明らかになってきた。倭の北岸は?? 倭と韓は接す。
推定
賀洛は洛東江河口
次に、「狗邪韓国」はどこか?、通説では金海市、洛東江が当てられるが、航海路から見ると、「巨済島」と!! 半島側でも勢力の棲み分け このころはまだ賀洛国も健在で、そこは4世紀には最高を迎えるが、、。
巨済島の北岸はいわゆる「鎮海湾」である。 リアス式海岸の天然の良港で、韓国海軍の基地、韓国造船の基地である。 かってから海軍の重要な拠点。
魏勢力は「倭」の海軍?の共闘で南下できたのだ。
卑弥呼も鮮卑系だが、渡海には倭の力が必要であったろう。
加耶で言えば「安耶」の地、日本書紀では「安羅」。 欽明の時代、任那復興会議でも登場。
威安古墳群、固城松鶴洞古墳等は、前方後円墳」のうわさも!!
壱岐からは伊都へ直接海路で行ったほうが楽なのに、其れもせずに陸路を汗して進んだことを書いている。末羅の紹介のためには書いたのだろうか。 沿岸を船で「水行」した方がよほど楽である。 それに、唐津から前原へ歩いて抜けるのも、山がちで海岸も険しいところだ。現在でも、202号線や電車は険しい海岸べりを行く。 最近の高速道路は山中を突っ切るが。 この辺はまさに船で行けば楽なのに。
魏勢力の渡海路は 対馬から壱岐島東部経由の不彌、奴だから、あえて末羅には行かなくても良い。もちろん伊都国は郡使常駐、一大率もいる訳で魏の勢力下にある。
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