いよいよ渡海、呼子から加唐島を見て、壱岐へ
呼子
四千余戸有り。山海に浜うて居る。草木茂繁し、行くに前人を見ず。
好んで魚腹を捕らえ、水深浅となく。皆沈没してこれを取る。東南陸行五百里にして
伊都国に到る。
呼子港から壱岐印通寺港まで、九州郵船フェリーで1時間の距離である。呼子港を出て、呼子大橋をくぐり 加部島を右に見て、今日は快晴殆ど「北」へ向かう。
加唐島と松島の間を抜ける。加唐島は日本書紀に出てくる「嶋王」、後の武寧王誕生の物語の地である。遠くに島影を追いながら壱岐水道を通過、見ていると松浦半島がかすかになり
、前方に平たい島の壱岐が見える。印通寺港に到着。この間はいつも島影が見えて安心できる。
原の辻遺跡は印通寺港から近い。船着場の後も見つかり、脚光を浴びた。多少の稲作地であるが、
自活するほどでもなかっただろう。
壱岐、やっぱり平らである。
壱岐
三千ばかりの家あり。やや田地あり、田を耕せどもなお食するに足らず。また南北に市てきする。
壱岐から対馬へ 北へ向かう
対馬厳原へは壱岐郷ノ浦港から九州郵船ジェットホイルとフェリーがある。ジェットホイルでは1時間
、フェリーでも2時間の船旅である。これくらいの距離ならばお互いの島影が確認できる。
今日も晴れだが、北北東の風強く、白波がたつ。壱岐から對馬へ船は殆ど北を向いて進む。 壱岐を出て、約1時間たつと壱岐の島も影薄くなり、前方に対馬が見え始める。 對馬を見ると高い山が一目瞭然。厳原も平地少なく港から見れば、直ぐ山が迫る。
宋家の菩提寺「万松院」はもう山すそになる。

対馬 土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の徑の如し。千余戸あり。良田なく、海物
食して自活し、船に乗りて南北に市てきす。
雨森芳洲先生のお墓参りに行く
雨森芳洲先生は滋賀県高月町で生まれといわれ、 「外交の基本は真心(まごころ)の交わりである」として、朝鮮国との外交に尽くした。享年88歳、対馬府中(現厳原町)長寿院に眠る。
對馬の厳原から釜山までは、「オーシャンパールライン」のジェットホイルが2日に一度走っている。就航率は90%程度。利用する人は韓国の人が多い。時間は2時間ばかりの船旅である。
其のうち半分は海峡を横切るが、あとの半分は右に對馬を見ながら走る。北対馬の比田勝からは
不定期であるが、ここからもジェットホイルが釜山へ向かっている。これならば、殆ど海峡を横切るだけだけだから、時間は約半分になるだろう。
激しい風雨をついて、対馬から海峡を渡る
これに乗った当日は雨模様で、九州に低気圧近づき,秋雨前線が停滞、天候不順。15時20分 厳原港発
北東からの強い風受けて、ジェットホイルは木の葉のように左右にゆれながら、波頭を切っていった厳原から對馬の島を左にみて、船は北北東に進む。ときおり海面よりも高く持ち上げられて、エンジン からのジェット音が空を切る。
乗客は、私達二人が日本人で、後は韓国の人ばかり。クルーも韓国の人で、放送も韓国語。

17時頃、やっと對馬から離れだす。 対馬の先で船は北北東から北西の進路を変え、釜山へと進む。海峡に入ると低気圧にも遠くなったのか、もしくは北東風が半島が遮りだしたのか、白波が
目立たなくなった。釜山に近づくと西に雲間に夕焼けも見えて、波は少し落ち着つく。18時35分、あたりは
すっかり暗くなった釜山港へやっと到着した。
時間は通常2時間のところ、たっぷり3時間はかかった。今回のような北東風の場合は最悪である。逆に、北西風は、対馬の島影になるし、半島自信が衝立となって、風も案外弱いかも。
海峡の風について、別項で考察中
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