卑弥呼「鮮卑系集団」の倭への進入
「卑弥呼集団は半島から南下してきた鮮卑系集団」との基本から出発する。
かっては伊都国王が代々いて独立していた。だが、いまや伊都国は女王国に統属す。
卑弥呼集団(鮮卑系)は半島から南下、倭の地に邪馬台国を建てる。としても完全に倭を占領したわけでもない。 海岸部の「奴国」より南部は卑弥呼側に帰属、伊都や末羅はかろうじて卑弥呼集団に占領されず生き残る。卑弥呼集団は奴国から東、南へ進んだので奴国の西側の伊都には鮮卑系は住まいもせず、占領下においただけだろう。 南方の狗奴国は卑弥呼に対して防衛している。
卑弥呼集団は鮮卑系で魏と通じている。だから戦火をくぐって都へ使いを送るのも容易である。魏からの使者はなぜ伊都国に常駐するのか? 魏の配下でれあば当然であろう。
一大率も伊都国にいて女王国以北を管轄 これは魏側の役人では? 刺史のようだと。 これを女王国から派遣されたようなのが通説であるが、魏から派遣された役人では。倭の中でも女王国以北は「魏の勢力下」と考えれば分かりやすい。女王国自体、魏の属国なのだから。
新羅と任那の対立 天孫降臨の開始
狗邪系は巨済島から南下、東進して洛東江河口にも進出。半島では狗邪系新羅、筑紫では狗邪系倭ができる。
「伊都国」は1世紀半ばに後漢と通じ、2世紀後半、倭大乱で衰退
当時、半島洛東江河口にでた狗邪系新羅は賀洛国を攻める。 賀洛国は狗邪系新羅と講和。 ここから任那と新羅の対立は始まっている。 (このあたりは新羅本紀参照)
こちら筑紫も同じ環境にある。 賀洛は呉系の半島拠点、また伊都は呉系の筑紫の拠点。 いずれも狗邪系の侵略により窮地にたつが、かろうじて残る。
継体時代でもそうであるが、半島洛東江河口と筑紫は一体で考える。この海上交通の要所は南北両方を獲らねば。 任那の金官が新羅に併合されると同じ時期に筑紫では狗邪系の磐井君が新羅を後ろ盾とした物部(加羅系)にしてやられる。
狗邪系の大和進出
第一の高麗系の天孫降臨の地は伊都である。(神代記参照。)
でも魏志倭人伝の伊都の人口は極端に少ない。もともとそんなに人口を育成できるところでもなく、倭へ回帰した集団は卑弥呼が来襲する前に東方へ展開したのだろう。 2世紀後半の倭の大乱? 賀洛から倭への回帰は伊都、その後は東方に展開したのだろう。猿田彦大神の伊勢はそれを暗示する。
狗邪系のヤマト入りを暗示する崇神の時代はいつごろななこか?
既に任那は存在して、任那と新羅の争いの始まりが崇神紀にある。2世紀後半か?
倭の大乱で狗邪系はヤマト東南部まで進出したとみてよい。もちろん、その前に倭先住系が難波とかに住んでいる。大和東南部こそまだ不毛の地で人も住めそうにもないところだったから狗邪系が進出できたのだあろう。
次の垂仁は次の加羅系の登場。 鮮卑集団についで半島では「不余」系、つまり高句麗の
建国、、。313年
朝鮮地図
其北岸狗邪韓国は巨済島
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里
、「半島」のどこから? 渡海路を考察」することにより、おのずから「狗邪韓国」はどこか明らかになってきた。
その北岸とは「巨済島の北岸」 「巨済(コジェ)」の発音は「狗邪」とよく似ているのでは?
「狗邪韓国」はどこか?、通説では金海市、洛東江が当てられるが、航海路から見ると、「巨済島」である。 半島側でも勢力の棲み分け このころはまだ賀洛国も健在で、そこは4世紀には最高を迎えるが、、。
巨済島の北岸はいわゆる「鎮海湾」である。 リアス式海岸の天然の良港で、韓国海軍の基地、韓国造船の基地である。 かってから海軍の重要な拠点。
近くには「安耶」の地、日本書紀では「安羅」。 欽明の時代、任那復興会議でも登場。
威安古墳群、固城松鶴洞古墳等は、前方後円墳」のうわさも!!
加耶古代史観 表紙へ
@ eizobach@ta2.so-net.ne.jp