後漢書
韓伝 韓有三種。一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西、有五十四國。其北與樂浪、南與倭接。
倭傳 倭在韓東南大海中。依山嶋居。凡百餘國。
半島のことを簡単に書くと
北は「楽浪」
「韓」
南は「倭」
中国の書物には「倭」と出てくる。加耶古代史観では「倭+呉」とするが、「呉」の文字は
中国の書物には出てこない。南方呉は楽浪あたりで北方「夫余」と南北融合して「韓」を
作る。
魏志倭人伝を見ても「 稲、麻、桑、綿を出す。」とあり、漁民ばかりの風俗でhない。列島の先住民は「倭+呉」、 倭は海上民だが、呉系は農耕民だから海岸部だけでなく内陸にも進出したことだろう。
桓靈之末、韓・彊盛、郡縣不能制、民多流入韓國。建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡。遣公孫模、張敞等收集遺民、興兵伐韓・。舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。
女王国の東、海を渡れば国があり、これも「倭種」と呼んでいる。その南、女王国から四千里には「朱儒国」、東南には「裸国・黒歯国」あり、船行1年で到るとある。なにはともあれ倭の地の海上民のルーツはかなり南海まで広がる。
大和とか内陸の様子を伝える記事は見当たらない。
「皆鯨面丈身」
入れ墨をしていたという記述がある。それは海中に潜り、漁をする時、危険な大きな魚等から身を護るものだったと言う。 倭人は潜水も得意で、農耕民族というより、海洋民族の風俗を連想させる。
「其の道理をはかるに。まさに会稽の東冶の東にあるべし。」
今の浙江省から江蘇省にかけてが昔の会稽郡。北緯30度
「鯨面文身」等、文身の風俗は会稽にあたいし、その距離を見ても会稽の東冶の東にあたる。
、
この地図を見ると、会稽の東は九州南部あたりになる。大まかな位置として正しい。
この地図は、魏、呉、蜀 三国時代
「有無するところ、「たん耳・朱崖」とおなじ。
稲、麻、桑、綿を出す。 牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)はいない。有無するところ、たん耳、朱崖と同じとする。 その風俗は海南島まで下がる。
これらは共に、今の広東省海南島にある。海南島はどの辺かというと、さらに南下して北緯20度まで降りる。海南島、会稽,倭と海路のつながりを示唆する。
前漢の頃、海南島に郡ができる。「たん耳郡」 BC110-BC82,
「朱崖郡」(BC110--BC46) 、以降、海南島は朱崖洲となる。
魏志倭人伝の作者は、海南島もよく知っていることを表す。
いずれにしても、「倭」は海南島までを連想させるし、遠く、得体のしれない南洋の島までの行程も出てくるのだから、かなりの海路をやってきたかと思う。 倭は列島だけでなく、列島から半島、渤海あたり、海南島まで、その痕跡を残す。 としても、当時の倭は海が得意だとしても、「稲、麻、桑、綿」も産するのだから、半農半漁の生活で、海南島あたりと良く似ているらしい。