前方後円墳は南北ハイブリッド
さらに古いのが徳島に!!
鳴門市大麻町から板野郡板野町にかけては古墳が多い。まさしく吉野川河口!!
徳島鳴門 → 萩原墳丘墓(はぎわらふんきゅうぼ 200年ごろ 日本最古
高松市にある「鶴尾神社4号墳」 220年ごろ
吉野川を遡行、集団は讃岐へ この年代分布からして吉野川を西進した証拠であろう。
紀ノ川河口にある古墳、大谷古墳はどうか?→ 筑後岩戸山古墳と同じ 耳垂飾り
ここに筑後と紀ノ川の連絡ありだが、何故かもっと古くても良いが?
大谷古墳の紹介
ホケノ山古墳の楽浪鏡 「3世紀代に造営された積石塚が楽浪郡と密接 」
「楽浪出土鏡は萩原墳丘墓鏡の割れ傷と全く同じ位置」
玄海灘から海路(南海まわり)で、、。 ここに出雲との連携!!
古事記から
友が島海峡の手前、加太に加太淡島神社あり、、この祭神は上の両者と神功。
つまり玄海灘の卑弥呼集団--北方系
出雲 --南方呉系
が連携して、阿波、紀伊にやってきたわけですね。 阿波の前方後円墳は、その南北融合の印ではないか?
円 →南方系
方 →北方系 (積石)
高句麗の古都「集安」に 将軍塚、広開土王の墓とも言われるが、ピラミッドのように石を積み上げて
新羅古墳公園などでは「円墳」が普通だが、、。
よく何故、前方後円墳は日本だけにあるのか?
半島南部海岸あたりでも、見られるそうだが、、。
加耶古代史観からみれば
前方後円墳は「南北融合の印」とする。
北 →「方」 積み石
南 →「円」
時代は2世紀後半
鎮海湾周辺か、洛東江支流 (栄山江) 慶尚南道
威安 ハマン --古代の安羅 、「伽耶」 ハマン古墳群??
固城 コソン --古代 小伽耶 松鶴洞1号墳 ??
このあたりは、魏志倭人伝のいう「狗邪韓」に近い。 狗邪韓は巨済島かと。
北からの「狗邪」の拠点となった。 狗邪は「伽耶」の源流!!!
全羅南道
ここらは
先住民 「南方呉」 系 →「円」
北方系 「狗邪」の進出→「方」
ここで南北融合というか、 ( 例えば、コムナリ (熊津) このあたりは「南方呉」の勢力が強くて
北方からの流れは素通り
狗邪系の最初 卑弥呼集団 2世紀後半 後漢の乱れ
玄海灘の「伊都」と対戦、、。 奴国は確保。 古代の伊都国はもっと広範囲にあった。奴国あたりまで
伊都は支配していた。
かれらは 海路 内陸にはいけず、結果どうしたか?
玄海灘 奴国へ
(1)出雲との融合 まず東、出雲融合
これはスクナヒコ+ オオアナムジ の国作り物語
オオアナムジは出雲新羅系
(2)西回り 日向へ?
(3)黒潮海路 淡路へ
阿波に最古の前方後円墳 ここに出雲と阿波の出会い
南北融合の発端
(4)大和南部への進出
大国主神 +御諸山の神(三輪山) → 出雲と連携をして大和南部まで進出を予測
大国主神 が本家だが、
以下は出雲から新羅や狗邪と混交して大和へ
オオアナムジ は新羅+
大物主神 狗邪 +−−−−狗邪系の神
日本書紀
ヤマトトトビモモソヒメ命が大物主神と結婚 崇神時代 3世紀後半
ホトを箸でついて死ぬ 姫の墓が「箸墓」
「日は人作り、夜は神作る。 故、大坂山の石を運んで作る」
ただ、突然と大和東南部に来るのは?
神武東征も、何故、大和東南部なのか?
いずれにしても、崇神時代とは?? 卑弥呼とは時代がずれる。
出雲系と狗邪連携して、大和へ来たこと 神代ではその発端はあったが。
南--- 出雲
北 *--- 狗邪系卑弥呼集団
古事記では箸墓とかは出てこず、三輪山伝説の紹介--
オオタタネコ神の子
神君、鴨君の祖とあり、ここに「狗邪」系の印し
オオタタネコは大物主神と活玉依ヒメとの子
大物主大神 →出雲狗邪系
活玉依ヒメ → 倭先住系
ここでも狗邪+倭先住
前方後方墳
大和南部へはもう少 箸墓 西暦260 年頃?? 突然と前方後円墳が!!
大和東部には天理 前方後方墳あり、これと巻向の関連は? ここは本来、新開地、つまりそれまで
だれも住んでいない。 奈良盆地は当時、湿地帯で、山麓あたりでない。 天理のあたりは前方後方墳あり、
3世紀初め。東海にも同様な古墳おおく、ここは東海からの移住路。
記紀などにある「和珥氏」の地盤である。 この「臣」は重要な印で、倭先住伽耶を表す。 「すなわち東南部に
卑弥呼系統の狗邪(君、、 三輪君)が進出、これは「君」。
いずれにしても、「臣」は「君」よりは古代
前方後方墳=臣
天理方面から山沿いに南下?
君の集団は
鴨の君 −−−西南部
三輪君 −−−−東南部
ここで「穂積臣」は 西南部、、、 。 東部には「和珥臣」
穂積はどこから? 当然、紀ノ川遡航 地図を見ても、こちらの方が容易。 紀ノ川沿いには目立った古墳前期のもはなさそう? 阿波鳴門は3世紀初め 前方後円墳!! 大和東南部へは阿波から紀ノ川と考えるのが素直
阿波から狗邪系が紀ノ川を遡るとして、、。 まず西南部 御所あたり、、。 l
すでに先住民穂積臣」、 ここで定着したのは「鴨君」でも十分でなく、東部へ移動、、 東南部へ。 東部山麓は「和珥」 までは行かない。
東南部で「三輪君」 3世紀 半ば以降
よく引き合いに出されるのは
大和川水路
東海路
だが、大和川から??
疑問 当時、狗邪系は瀬戸内へ入れたか?
入れたとしても生駒の間、大和川を超えるのは険しく困難−−神武東征
、この狗邪系が進出できず 在野の呉勢力が強い。
(狗奴国 とかで)
卑弥呼は筑後にいても、南北融合ならず、闘争のみ。 「狗邪」系支配ならず、先住呉の抵抗大きく、卑弥呼集団は玄海灘から新しい地を見つけに南へ?? 確かに後発はもっと不便な土地、ここではもっと東方へ。
日向、淡路、大和
日向に古代の古墳は??
日向地方
いずれも新羅系拠点 すなわち在来呉+ 狗邪系新羅 ----
5世紀始めには「印恭」が河内へあがっているが、その前の定着地!!
(1)
古墳時代前期最大 西都原(サイトバル)古墳群 4〜5世紀からだから、箸墓よりは新しい。
ここは狗邪系新羅の地盤
(2)
それと、これは??
男狭穂塚 帆立貝形古墳または造出し付円墳?
女狭穂塚古墳 九州最大前方後円墳 5世紀前半 から中頃築造 ??_
5世紀頃の古墳 ニニギノ尊の墓でありえないけれど、何故?
いずれにしても3世紀頃はなさそうだ???
筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)の墳墓 6世紀前半の築 八女丘陵
南北融合は?? 磐井敗北のあとか???
筑後の古墳でもっと古代は??
筑後吉井 南に耳納連山がそびえ、北に雄大な筑後川 装飾古墳
佐賀市金立の銚子塚 四世紀型
岩戸山あたりが 筑後邪馬台国とみているが、、。
4世紀以降は、半島に高句麗の影響が出てくる
313年に、高句麗は楽浪、帯方に進出
この結果どうか?
狗邪+高麗= 加羅に変質
洛東江上流では、狗邪に 北方からの高麗と融合 → 高霊あたりには前方後円墳はない。
5世紀後半 最大の前方後円墳 古墳の場所も攝津
従来の呉勢力の場所で、北からの高句麗との融合結果??? 倭国最大の領域でもある。
すなわち半島南部+倭である。 これも南北融合。
騎馬民族、
鉄の生産
倭国は
雄略 コムナリからの移住呉系+ 高句麗
仁徳 倭先住呉+高句麗
加羅 狗邪加羅+高句麗
履中 狗邪新羅+高句麗
「呉、狗邪」と「高句麗」との融合
記紀は時代をごまかしているが、これらはほぼ同時代に展開されたいろんな勢力の闘争歴史
古代は「円」部から拝む、今の宮内庁は「方部」から? これは何故か?
本当は 「前円後方」と呼ぶべし。
円ーー南方呉
方-----高句麗
前円後方墳と呼ぶべし!!!!
[前方後円墳]の位置、向き等、立地条件
位置 円部は交通の要所 円部が拝所
円部は、地形的に高所 水は円から方に流れる
御陵の濠は灌漑用水 水をためるのは「方」部
前方後円墳 宮内庁による「拝所」は「方」で、ここが前とされる。
でも、古代より、「円」の方が「拝所」
「円部」こそ核心であるのに、、。
応神陵古墳にしても、八幡宮があるのは「円」の方
拝所を「前」とするならば、「前円後方墳」!!
反正稜古墳 方違神社 ---丹比道の起点-
印恭陵古墳 土師ノ里
応神陵古墳 誉田八幡宮----
仁徳稜古墳 竹内街道と西高野街道の分岐
これら全ては後稜の円部に位置する。 交通の要所、すなわち
古来より人々は「円部」の方から拝んだと思います。
(2) さらに、向きについて
百舌鳥野古墳群(反正、仁徳、履仲)は南北に。
百舌鳥のニサンザイ、御廟山、イタスケは、東西方向になる。
これは長辺に沿って水が流れるように造作。
本来は、御陵の濠は灌漑用水である。 いわゆる円部から入って、灌漑用水は
「方部」から出て行く。 だから、高いところを円部にする。 例えば、百舌鳥三陵
はと南北に並ぶ。
北の三国ヶ丘あたりがこの辺の高所で、そこから南へ石津方面へは降る。
履中あたりまで来ると、殆ど平地に近くなる。
ニサンザイ、御廟山、イタスケは、百舌鳥川に沿って東西で、円部は東である。
箸墓も川の流れに合うように東西で、「円」は東、山の方ですね。
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