天皇家の祖先は天から降ってきて、九州の高千穂におり、次に「神武東征」により日向から畿内へ行くが、ナガスネビコの抵抗にあって難波から大和へ入れず。どうしたことか紀伊半島を迂回して熊野から山を越えようとする。ここでも難儀するが、「やたがらす」の先導で吉野川の上流へ、そして土ぐもを退治して、ニギハヤヒノ命の帰順により、大和盆地の東南部の橿原の宮に、やっと都を定める。それからは、列島の先住民である、南九州では「熊曾」、東日本では「蝦夷」を征伐していく。征伐が一段落したら、「神功皇后の三韓征伐」で海外出兵、「任那日本府」なるものを設置して経営にあたる。対外的には、百済、新羅、高句麗等は日本へ朝貢する国となる。
半島からは、天皇の御代をしたって、多数の帰化人集団が、当時の最新技術をもってやってくる。
そのうち、「神功」の三韓征伐で得た「任那」は新羅、百済に攻められて亡くなる。最も、百済系の日本書紀は割譲という言葉で、百済が加耶を攻めたことを書いているが。「任那」救援に軍隊を出すが、その効果はなく。また百済も新羅によって攻められる。倭が百済救援の為、唐、新羅連合軍と戦うが、一瞬に負けてしまう。但し、古事記では、「継体」での「任那救援」の話は出てこないし、ただ、磐井の君を少し書いているだけである。また天皇も「推古」で終わるので、「天智」での百済の滅亡史も記載されていない。
百済、任那に関する感傷めいた記事はない。
古事記によると、「神功皇后の新羅遠征」で、新羅は「馬飼」に、百済は「渡りの屯倉」となる。応神になって、百済の朝貢、新羅からの渡来の話がある。日本書紀での「垂仁」の天之日矛の話は、後代の「応神」に出てくる。これらは、応神の時期に、新羅からの渡来が多かったことを物語るだけで、あっさりしている。
日本書紀は半島の加耶、百済、新羅、高麗等の国を植民地的にみているが、特に新羅は常に敵対国である。 何故なら彼らの母国の加耶や百済を滅ぼした張本人であるからだ。
加耶は「任那」で、彼らの故郷のひとつであり、最後までその奪還をねらう。百済救援にも多数の軍隊を派遣、亡命も多数受け入れている。
恐らく、日本書紀は百済・加耶系移民が書き連ねたものであろうし、日本建国の歴史書はまた加耶、百済の滅亡史でもある。また天皇万世一系であるが、読んでみれば、皇位継承をめぐって血みどろの闘争が多く、残虐な天皇も遠慮なく書いている。また「磐井の乱」「大化の改新」「壬申の乱」等のクーデタや内乱を通じて統一されていく歴史である。
帰化人史観
確かに「万世一系の天皇制」は 対外的には「神功皇后の三韓征伐」、「任那日本府」、「帰化人」で成り立っている。これでは本当の日本民族のルーツはなにも判らない。
倭中心主義三韓征伐や任那日本府は当時の作り話としても、問題のひとつは、現在まで続く「帰化人史観」である。これは素直に渡来、いや「移民」にしょう。「技術奴隷」が渡来してきたのではなく、半島から技術をもった人たちが新天地を求めて「移民」してきたのだと思う。彼らは主人公なのだし、先住民の蝦夷、熊曾等を駆逐した所で、国を作っていったものと思う。つまり、加耶、百済、新羅、高句麗系移民があちこちにいるといった感じである。まさにアメリカ大陸への移住と同じである。
(1)任那日本府の虚構「帰化人」から「渡来人」に変わり、最近の論調をみれば、4世紀大和朝廷説は影を潜めているようである。大体、7世紀後半に日本国家が出来上がったと見るのが多いか。しかし、驚いたことに、講談社学術文庫の古事記(中)には、「神功の新羅遠征」のところで、いまだこんな解説が載っている。
「4世紀末から5世紀初頭にかけてのころ、大和政権が朝鮮に進出し、新羅を制圧したことは歴史的事実であるが、神功皇后の新羅征討の物語は、その歴史的事実を説話化したものとは考えられない。」まだ、国が統一されていない時期だから、「大和朝廷」から「大和政権」に言葉が変わり、さすが神ががり的な神功皇后は「構想」されたものとして事実でないとしている。大和中心主義の歴史観は、少しは薄らいで入るものの、言わんとしていることは旧態依然である。
私の考えでは、「倭から半島へ」ではなく、「半島から倭へ」というコースを取る。
加耶、百済、新羅からは対馬、壱岐、北九州、吉備、難波と、一部は瀬戸内を通らず、出雲へ抜けたかもしれない。一方、高句麗からは、直接日本海を渡ってきて、若狭、能登、越へつき、近江、山背と近畿へ入ったと思う。半島からの畿内への移民集団は特に5世紀半ば以降、多くなり、7世紀後半に国を統一して、日本国とした。半島からの移住してきた人達は互いに融合しながら、高温多湿で緑豊かな国土で様様な変化を受け、次第に日本民族を形成していったものと考えている。
半島ではお互い闘争していた加耶、百済、新羅、高句麗系移民が一緒に暮らすには、「天皇制」という絶対権力が必要だったのだろうか。その「天皇制」は明治以降、日本書紀の歴史観にそって、朝鮮の人に対して残虐そのものである。しかし、歴史的にみれば、不幸な、秀吉の出兵と戦前の軍国主義の時代を除けば、日本と朝鮮の間は友好的な期間が長い。
日本書紀の始めての朝鮮記事
加耶七国の平定日本書紀の対外記事の最初は、崇神65年の任那に関する記事である。
「任那は筑紫国を去ること二千余里。北海を阻てて鶏林の西南にあり」と紹介されている。鶏林とは
新羅の地。「垂仁、景行、仲哀」辺りで、国内での「熊曾」闘争にはケリをつけ始める。
チラチラと外国記事が挿入される。
任那のソナカシチが国へ帰る時、新羅が土産物を奪う
新羅の王子「天日槍」 来帰各、加耶、新羅であり、百済ではないことは興味深い。つまり、倭の地の開拓に訪れたのは、加耶、新羅の順で、続いて百済、高句麗系という順番である。 地理的に見てもそれは頷ける。
干支二運を繰り上げた日本書紀の作為カヤ(加耶)もしくはカラ(加羅)であるが、日本書紀では、任那と書かれている。呼び方は日本語では「みまな」、ハングルでは「ニムナ」である。ニムは「君主」、ナは「国」の意味であるという説に賛成したい。
大事なことは、任那という呼び名は日本書紀からの呼び方で、半島の呼び方は加耶(カヤ)である。
ただ、広開土王碑文の中に、「任那加羅」という文字があるが、これについては別項で述べる。
いつ頃、加耶諸国が成立したかのヒントは日本書紀にある。
「七国平定」の記事は書紀紀年249年、神功49年の話しである。そこでは、日本書紀はあたかも倭国が平定したように書いている。
書紀紀年で249年で、120年のズレを計算すると、369年となる。 だから、加耶は4世紀後半辺りには出来ていたと考えて良いだろう。ヒシホ-- - 慶尚南道 昌寧
南加羅アリヒシノカラ-- 慶尚南道 金海 キメ
トクノクニ------? 解説では、慶尚北道慶安を云っているが、南道のどこかか。
安羅 アラ-----------慶尚南道 威安 ハマン
多羅 タラ-----------慶尚南道 陜川
トクジュン-----慶尚北道 テグ
加羅 カラ---------- 慶尚北道 高霊 コリョン
「図説 韓国の歴史」によると
「加耶は、弁韓十二カ国が母体となって、四世紀ごろに成立した。その領域は、現在の慶尚南・北道
にあたり、ナットンガン洛東江の中、下流の西岸地域が本貫であった。」
とある。この中で、東岸にあるのは、ヒシホ、トクジュン、トクノクニで、他のアリヒシノカラ、アラ、タラとカラは西岸にある。このうち、アリヒシノカラは南加羅で、上記の金官加耶である。魏志倭人伝の狗邪漢(クヤハン)国は、加耶の金官加耶(クムガンカヤ)となり、北の高霊加耶と共に、加耶諸国の中心となって発展した。
別項で詳しく述べるが、南加羅と書いて、日本書紀は「アリヒシノカラ」と読ませるのも、意味深長である。半島の加耶から、新天地の列島に移住した人たちからみれば、母国のアリヒシノカラ南加羅を中心として、加耶諸国が出来たことを言っているのだ。また日本書紀は、まだ任那という言葉を使っていない。
日本書記で言えば「神功」から対外的な記事が多くなる。神功5年あたりまでは、神かがり的な物語だが、ここから40年ばかり、不思議なことになんの記述がなくて神功46年まで飛ぶ。そこから65年あたりまで、主として百済に関する対朝鮮交渉の記事が続く。
例えば、百済関係は「百済記」を参照して書いていると言われるが、「百済王の変遷」などを見て、史実と比べると紀記年は120年分、年代を干支二運を繰り上げて昔になっている。
例えば 岩波文庫版の注によると、
神功摂政55年 百済の肖古王 薨せぬ
神功摂政56年 百済の王子 貴須、立ちて王となる。
神功摂政64年 百済の貴須王 薨りぬ。王子枕流王、立ちて王と為る。
神功摂政65年 百済の枕流王 薨りぬ。王子阿花年少し。叔父辰斯、奪いて立ちて王と為る三国史記に同様の記述があり、
書紀紀年 三国史記 西暦
神功摂政55年---乙亥 255年 近肖古王30年 375年
神功摂政64年---甲申 264年 近仇首王10年 384年
神功摂政65年---乙酉 265年 枕流王2年 385年
日本書紀の紀年を干支二運さげれば、西暦年号と一致する。たとえば、近肖古王は日本書紀によると書紀紀年255年に亡くなったことになるが、史実としては、干支二運さげて375年の出来事とすれば、三国史記と一致するわけだ。
また、神功のところに、後で追加されたような形で、魏志倭人伝の引用が見られる。たとえば、
神功摂政39、40 43 年にある。どうも日本書紀は卑弥呼を神功皇后とみなしていたと思う。
39 年 景初3年 ---239年
40 正始元年---240年
43 正始4年---243年
ここでは、魏志倭人伝からわりだされる西暦年を、そのまま日本書紀の紀年とし表現している。何故こんな作為をしたのか、いろいろ原因が有ろうが、すぐ判るのは、「神功皇后」を「卑弥呼」に比定するがためであるう。はたしてこれだけであろうか。
百済にとって空白の120年間「神功皇后」はもちろん架空の人物であるのは言うまでもない。「神功」前半は、神がかかり的に半島へ進出して、新羅を降伏させたという説話である。倭中心主義の独善的な話で、誰もこんなことを信用しない。ひどい話である。
その後半は、百済王の即位などの記事が出てきて、行間に史実がチラチラする。「応神」になっても、120年のズレは続くのか。百済王の即位の記事をみてみよう。 岩波文庫版
日本書紀の注によると、応神3年-- 阿花王即位 壬辰392年 120年繰り下げれば、三国史記と一致
16年-- 直支王即位 乙巳405年 上とおなじ
25年-- 久爾辛即位 420年 120年繰り下げても6年のずれ
久爾辛の即位は420年で、これが正しいとすると「応神31年」とならねばならないが、少しずれがある。久爾辛の在位は420-427年であり、この後は「田比有王」が427--455と続くが、日本書紀にては記載がない。
日本書紀「仁徳」になると百済の記事は何故かバツタリ途絶える。 「仁徳、履中、反正、允恭、安康」まで在世年代をたしていくと、119年間になる。倭の五王の時代とされているが、対外的記事は少なく、百済にとっても空白の120年間である。
仁徳 67
履中 6
反正 1
允恭 42
安康 3 合計 119年
ようやく「雄略」になって百済の池津媛、不義により焼き殺されるという話が突然出てきて、対外的な記事が豊富となる。これより後は、昆支の来倭と武寧王の誕生の話の始まりであり、百済について引き続き、詳しい話が復活する。
この時の百済王は「蓋歯王」で、その在世は(455--475)である。雄略元年は蓋歯王の即位年と同じ455年である。この間、田比有王や蓋歯王の即位記事は日本書紀に見られない。
整理すると、仁徳から安康まで、日本書紀の紀年では約120年近く経っている。しかし、西暦年代を計算すると、応神の末は、よく判らないとしても435年あたりであろう。また雄略の最初は455年となるので、実年代でみると、仁徳--安康の時代は、あったとしても20年位で極端に短い。
確かに、「仁徳-安康」は百済の記事が空白であり、例の120年の時代のズレは解消されていく。何か作為的な物がないか。
昆支王
その後は、文周王の死、文斤王即位の記事はなく、文斤王の死の記事が出てくる。昆支は倭へ何の為にきたのか、興味ある問題である。百済と倭の関係を見るためにも、日本書紀の記事をたぐってみよう。
雄略2年、百済の池津媛が「石川楯に淫けて」、手足を木に縛られて焼き殺される。むごいことではある。
雄略5年、昆支は倭国へ行く条件として、ケロ王の婦を連れていくことを条件にしたが、子を孕んでいた。ケロ王は承諾するとして、もし子供が産まれたら、妻子とも速やかに帰国させるよう頼んだ。倭への途中、子供が生まれたので、妻子とも国へ帰している。 この子が、後の武寧王となる。昆支は5人の子供をもうけたとあり、その第2子が後の東城王になる。 いずれにしても、倭で生まれた子供2人が、国へ帰って王となり、また、後の4人の子供は倭国へ住み着いた事は確かみたいで、後、百済王朝の血は倭国でも引き継がれていく。
この頃の百済は、高句麗に攻められて苦戦しているときで、ついにはハンソン陥落。南の熊津へ遷都するも、内部闘争激化して、短期間に王が交代する。
日本書紀をみてみよう。「雄略5年秋(461年) 軍君、京に入る。既にして五の子あり。百済新選にいわく、辛丑年に蓋歯王、弟昆支を遣して、大倭に向でて、天王に侍らしむ。もって兄王の好を脩むるなり」「20年、高麗の王、大きに軍兵を発して、伐ちて百済を尽す。」
「21年の春3月、天皇、百済、高麗のために破れぬと聞きて、久麻那利を以て文洲王に賜ひて
その国を救い興す。」
武寧王「23年(478) 百済の文斤王 薨せぬ。天王、昆支王の五の子の中に、第二にあたる末多王の、幼年くして聡明きを以て、(中略)、、 是を東城王とす。」
この辺りの表現を見ると、百済が「大倭」と友好を結ぶという記事であり、「昆支王」とか書かれているのも注目に値する。百済系移民集団の長が昆支王ではないか。この頃の百済と倭の関係を見るに、殆ど垣根はなきに等しい。 百済本国との行き来も自由である。倭にいる王子が国に帰って王となる位だから。
七支刀に関して、リー・ジンヒ氏は 「百済大王が候王とみなす百済系渡来人の長に下賜するために、480年に作った物とみなす」と書いている。5世紀後半の情勢をみれば、うなづけることだ。
雄略は蓋歯王の代で始まり、丁度、文斤王(三斤王)の最後と重なる。
雄略以降の「清寧、顕宗、仁賢、武烈」と続き、残虐な「武烈」と呼応してか、百済の末多王も無道で百姓に暴虐す。武烈4年、(501年)武寧王が即位、在位年代は(501-523)
広開土王碑銘文のねつ造
4世紀後半から5世紀にかけての 半島情勢
371年、クンサゴワン(近肖古王)の時、「ペクチェ」は、北は高句麗の平壌を攻めては、コググォンワン(故国原王)を討ち、南は南海岸まで進出して、ハンガン流域のハンソン(漢城)に都を置き、大きく領土を広げた。372年には高句麗に仏教伝来、384年、百済に仏教伝来。
高句麗は、クワンゲトワン(広開土王)の時代(391--412)になって反撃に出て、領土拡大を進めている。問題の広開土王碑に記されている倭に関するものを見てみたが、素人がみても、碑文はどうも改竄された疑いが濃厚だと思う。
391年 百残、新羅は旧より、属民にして、由来貢献す。
而るに倭は、辛卯の年を以て来りて海を渡り、百残、( )、新羅を破り、 臣民と為す。
399 九年己亥、百残、誓いを違えて、倭と和通す。
王、平壌に巡下す。新羅、使いを遣わして、王に申して曰わく、
倭人、その国境に満ちて、城池を潰破し、奴客を以て民と為せり。
王に帰して命を請うと。400 十年庚子、歩騎五万を遣わして、往きて新羅を救わ教む。
男居城従り、新羅城にに至るまで倭、その中に満つ
官兵、方に至り、倭賊、退く。
倭、満ち、倭潰ゆ。
404 十四年甲辰、すなわち倭、不軌にも帯方界に侵入す。
倭冦、潰敗し、惨殺するもの無数なり。また、400年のところに、
「倭満倭潰」の上に「来背急追 至任那加羅従抜城」という文がある。
(1) 400年の任那・加羅まで追撃した話しもおかしい。「任那」という名前は日本書紀での呼び名で高句麗から見て、そんな呼び方をしないと思う。「任那」はニムナ、すなわち「君主の国」の意味である。(2)高句麗と戦ったならば、得意げに日本書紀は書くはず。そのころの記事で確認してみよう。
応神2年から、15年あたりに相当する。記事をみても対外的なものは、加羅、百済、新羅で、高句麗の話は出てこない。
(3)また高句麗本記などには、倭の文字は一切出てこないし、高句麗の新羅への救援とか、帯方界への倭の侵は、他に伝えがないと云う。(4)高句麗の攻めた範囲は、北は満州、南は百済を征伐し、西海岸ではイムジンガン、東部ではハンガン上流まで進出したとある。4世紀末から5世紀前半にかけて、抗争の焦点は、対百済であり、新羅や゜倭ではない。
(5)
百済と倭国の始めての結びつきは、日本書紀によると神功46年、紀年246年、西暦366年と言われる。この頃の百済は、上で書いたように北は平壌を攻めるぐらい最盛期である>
ずっと後になるが、
日本書紀によると
雄略8年(464年)に高句麗に襲われた新羅が、任那に助けを求めて、任那が高句麗軍と戦ったという記事がある。この辺りは、例の広開土王碑の記述に似ているが、碑文の作者はこの辺の日本書紀の文章を参考にしたか。
5世紀後半の当時は、新羅は北から、百済は西からは加耶をねらっている状況にある。敵にあたる新羅から救援を求められて、加耶が応ずるかは非常に疑問である
もし、新羅が救援を求めるならば、当時、同盟関係にあった百済であろう。
倭の五王
日本書紀には記事はない。宋書に記載がある。
倭王は、それぞれ、漢字一字で呼ばれている。讃、珍、済、興、武である。
今までの作業は、「天皇」の誰にあてるかという点ばかりに集中している。しかし、なぜ一字なのだろうか。
また、その当時は、倭国はまだ統一されていない。倭には、「筑紫」、「難波」、「河内」等と移住してきた人たちがいる。この中でも「筑紫」は邪馬台国の流れを組むところで、磐井の乱まで続く。
この当時の倭国は?
筑紫 加耶系の倭国 磐井の乱まで続く。
河内、飛鳥はまだ移民が続く。
河内 新羅系
飛鳥 百済、高句麗系
山城 新羅系
どういう交通ルートで行ったのであろうか。
半島沿いならば、途中の国の助け無しでは行けない。
当時は、高句麗の勢いが強くなっていく時期で、475年には百済がハンソン陥落で、南へ逃げている。
478年の武の上表は詳しい。高句麗が邪魔して、行けないことを書いている。
413
421
425
430
438
443
451
460
462
477
478
479
502
「応神、神功」以前の「ねつ造」
百済 空白の120年間を考える。
1. 先に河内に成立していた仁徳王の系統彼らは、百済とは関係がない。文中から見て、どちらかというと新羅系
仁徳から安康、雄略、武烈等は百済系とは関係のない大王と思う。
有るのは新羅と関係の深いと思われる記事だけで、新羅系であろう。
2. 後からの移民で、百済系 時期は5世紀後半か?
彼らは、河内南部の近つ飛鳥、大和盆地東南部の遠つ飛鳥に住む。いつ頃移住したのか、それは雄略王の時だ。雄略になると、次に述べるように急に現実味を帯びるのを見ても頷ける。
倭国としては、河内の仁徳王が中心
雄略の謎大阪堺にある大山古墳が、仁徳陵とされている。あの広大な前方後円墳は何を意味するか別項で述べたい。
どうも倭国へ始めて来たのは「任那のソナカシチ」であれば、二番目は「新羅の王子天日槍」で、 話は誠に興味深い。任那、新羅系の移民が古くから会ったことを暗示している。
さらに、次ぎにのべる昆支は、百済系移民の象徴か。前方後円墳 百舌 新羅系移民 --
古市 百済系移民--昆支
仁徳王の開始時期は、日本書紀で計算すると書紀紀年で310年となる。ただ、120年間のズレを考えると、実際は430年辺りとなるが、120年そのものが恣意的なものだから、本当の所は判らない。
新羅系移民があるとしてたら、高句麗が力をまして平壌に遷都した423年位から、百済のハンジョウ陥落475年位か。
応神16年 西暦405年 紀年285年 王仁 来倭
雄略20年 475年 百済ハンソン陥落
新羅の王子「天日槍」 来帰
昆支の倭国へ来る
高麗の南進
百済のハンソン陥落、ウンジン遷都
高麗の南進--新羅・百済同盟「雄略」になって、変化してくるのは高句麗の話が出てくる。
5世紀になると、高句麗の勢力が強くなっていき、百済は次第に押されていく事実とつじつまが合う。
427年 高句麗のチャンスワン(長寿王)に遷都新羅はヌルジワン(417--458)代になると高句麗と対抗するため、433年、百済と同盟関係を結んでいる
百済のハンソン陥落とウンジンへの遷都
6世紀前半の百済安定雄略20年、ついに高麗がハンソン(漢城、漢江下流南岸)陥落の記事が出る。
475年 高句麗の長寿王(チャンスワン)の攻撃を受け、ハンソンは陥落。ケロ王、大后、王子とも殺される大事件。文周王(475-477)、ウンジン(熊津 今の公州)へ遷都。
三斤王(477-479)日本書紀はなんと書いているか見よう。問題は「遷都」の所だ。
「天皇、百済、高麗の為に破れぬと聞いて、久麻那利をもって「もんす王」(文周王)に賜ひて
その国を救い興す」 倭国が、コムナリを与えたとあるが、史実としてはデタラメである。いわゆる倭中心主義の天皇制のねつ造文である。史実としては熊津へ遷都で、そこはもともと百済の領土で、倭が与えられるものではない。雄略23年、「百済の文斤王」が亡くなったため、倭国にいた昆支の子供「末多王」が、百済に帰り、東城王となる。(479-501年)
参照 5世紀末の勢力分布図
「雄略」以降、「清寧、顕宗、仁賢、武烈」と約21年続くが、朝鮮記事は少ない。
武烈4年、末多王すなわち、東城王の暴虐の記事あり、武寧王即位。(501年にあたる)国内でも、武烈は残虐な天皇として描写されており、読むのもつらい。
百済は武寧王(ムニョワン)時代(501--522)で安定期を迎える。
523年 聖王(ソンワン)の時、首都をサビ(現在のプヨ)へ移転、国号を「ナムプヨ」と変えている。
継体の謎
平穏な「清寧、顕宗、仁賢、武烈」の時代と違って、
「継体」も雄略と同様に風雲給
告げる。日本書紀も乱れている。この間、もしくはこの辺りに事件が多い。530年前後
百済への4県割譲事件
近江毛野臣の遠征
南加羅滅亡
磐井の乱
等、大事件が続く。倭国の故郷の一つ、任那が滅ぶ落日の時だ。百済への 四県割譲-
任那の四県を割譲した話し。これも日本書紀独善的な描写。南加羅滅亡史実としては、百済が、この4県を侵略して領土化したものだろう。6世紀前半は加耶諸国が、新羅や百済からの攻撃を受け、それらの傘下に併合されていく歴史なのだ。百済びいきの日本書紀の作者は、「割譲」という文句で、うまく誤魔化したのだろう。
何故、割譲したのか、その動機は、よく出てくる「賄賂」をもらったからだという低次元に落ち着く。さらに、「コモン、タサも百済に賜ふ」と記事があるが、加耶諸国は次第に狭まる。継体17年 (523年) 武寧王(ムニョワン)亡くなる。
523年 聖王(ソンワン)の時、首都をサビ(現在のプヨ)へ移転、国号を「ナムプヨ」と変えている。
磐井の乱
欽明--
安閑、宣化は直ぐ終わり、欽明となる。新羅の漢江上流進出ただ、宣化の時に、蘇我稲目 初出
欽明32年間(542--574)は殆どが朝鮮半島の対外記事で埋まる。
任那滅亡
新羅の漢江上流進出
仏教伝来
倭国にとっては、新羅に取られた任那を回復することが主題となる。百済にも、救援を頼むが、百済はソンワンの時代で新羅と連合して北を攻めたが、裏切られて逆に攻められているので、その余裕もないか。
新羅の漢江上流進出や任那滅亡等、新羅の領土拡張が進む。
欽明12年--554年加羅諸国消滅 任那滅亡 562年
ソンワンは高句麗に奪われた漢江上流を「新羅」とともに取り戻すが、新羅の背信で、再びそれを失い、戦死(554)。百済に対する新羅の攻撃はなおも続く。日本書紀で言えば、欽明12年にその記事が゜ある。また、この頃、倭国に仏教伝来。
漢江奪還について、日本書紀はなんと書いているか。「欽明12年、百済の聖明王は、二つの軍隊を率いて、高麗を伐つ」とある。もちろん、史実としては、百済・新羅連合軍なのだが、日本書紀は具体的な名前をあげておらず、注として、百済となんと任那をあげている。既に滅亡している任那を書くのもおかしいし、百済・新羅の連合を認めても書けなかったのだろう。
また、聖王の戦死については触れていない。欽明13年に「百済、漢城と平壌を棄つ。新羅、これによりて、漢城に入り居り」とある。
欽明18年 554年 威徳王 (554--598)が亡くなる記事あり。
新羅の攻勢は続き、ポプンワン(514--540)の時代には、律令の交付と仏教公認。チヌンワン(540--578)の時代には漢江の上流、下流を初め、洛東江流域を押さえ、東は海岸に沿って東北方面に進出している。
参考 6世紀末 勢力図
血塗られた飛鳥時代仏教伝来 552年百済聖王30年、倭国へ仏教。百済は新羅と連合して漢江上流をねらう高揚期
敏達、用明、崇峻、推古、舒明、皇極、孝徳、斉明天智 百済救援の遠征
敏達 日羅の暗殺
崇峻 馬子による崇峻暗殺、
推古 法興寺完成 、小野妹子遣唐使
舒明
皇極 645年 中大兄クーデタ 馬子暗殺
孝徳斉明 斉明6年 百済福信の救援の要請、朝倉で没
百済滅亡---
新羅ムンムワン(文武王)の時、660年、唐の蘇定方、新羅のキムユシンに率いられた唐・新羅連合軍に攻撃され、プヨでウィジワン(義慈王)で最後の王朝となる。
天武