定林寺は当時、日本でいう、中門・塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ四天王寺式伽藍であったことが
確認されている。四天王寺は、推古元年(593年)に難波の上町台地に、聖徳太子によって建立された。
蘇我と物部の崇仏抗争に勝利した証でもあるが、そこは難波津に望むところであり、海上からも
大伽藍を望めたであろう。 最も、四天王寺式というのは逆かもしれない。高麗の影響もあろうが、当時の百済での伽藍形式
で建立したのだから「百済式伽藍」なのかも。四天王寺の他にも、我が国では河内南部の
河内飛鳥にもヲガンジ「鳥含寺」、西琳寺、道明寺(土師寺)等に、「四天王寺式伽藍」があった
ことが推察されている。半島では、プヨの西北西約30kmの「鳥含寺跡」(「古代を考える河内飛鳥」より)、プヨの南方2kmの
軍首里廃寺(「韓国の古都を行く」より)などに、伽藍が南北一直線に並ぶ四天王寺式が確認されている。
百済プヨと難波津、河内飛鳥は、全く百済と同じなのである。
一方、飛鳥寺は推古4年(596年)、蘇我馬子が発願して創建されている。これはどうか。「韓国の古都を行く」によると、飛鳥寺は、塔を中心に、東西と北側に三つの金堂を配置する一塔三金堂式の形式で、これは平壌郊外の清岩里廃寺(高句麗)と一致すると書かれて有る。
つまり、飛鳥寺は高句麗、百済が融合しているのだ。飛鳥寺の僧侶も百済、高句麗の両方から来ている