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重文 維摩居士座像 木心乾漆像 天平or 平安初期
仏頭 木造 漆 鎌倉
二天頭 木造 彩色 天平
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1.法華寺
法華寺は平城京跡の東、旧一条南大路の左京にある。近鉄奈良線の西大寺下車、バスに乗り換え、法華寺で降りる。周りは平城京に近く、広々として古京の趣を残す。バス停から、小道に入ると静寂である。
ところで、法華寺から東大寺転害門までの道は佐保路と呼ばれる。法華寺から佐保路を歩くと、最初は畑がちらほらするが、JRの線路を超えると賑やかになり、左手を見ると人家の向こうに佐保山が見え隠れしてくる。
さらに、佐保川と斜めに交差する辺りまで来ると、左手に佐保山南陵(聖武陵)、佐保山東陵(光明皇后陵)があり、道も狭くなって周りの人家の雰囲気も古都らしくなる。まもなく、正面に転害門が見える。
法華寺の後は、東大寺境内を散策するのも一興である。
旧南大路一条の東端、転害門と三笠山
法華寺は天平時代、光明皇后の勧めにより日本総国分尼寺として創建された。正式な寺号は「法華滅罪寺」で、光明皇后の生家、藤原不比等の邸が寄進されて寺となった。我が子基皇子を満一歳前に失い、また天然痘で兄弟の藤原四卿を失った光明皇后の悲しみに、滅罪寺の文字が深く関わりがあるのだろうか。
法華寺の現在の本尊は十一面観音だが、法華寺金堂の最初の本尊は阿弥陀三尊だったらしい。続日本紀によれば、天平宝宇5年(761年)6月、皇太后の一周忌のおり、諸国の国分尼寺に、阿弥陀仏の丈六の像一体、脇侍の菩薩像二体を造らせたとある。15世紀末から16世紀初頭にかけて法華寺は戦火で焼失した。現存する建物、南大門、本堂、鐘楼等は桃山時代の再建である。
いつから十一面観音が本尊になったかは定かではないが、江戸時代の「和州寺社記」には「本堂の本尊は十一面観音で、異国の仏師作れり」とあるそうな。
しかし、よく聞いてみれば、今日の本尊は閉扉中で、私が拝観しているのは分身像らしい。分身像は明るくて、木の色も鮮やかで、香の煙ですすけたとところもなく創作時の様相である。しかし、分身とはいつの時代に作ったものか。
和辻哲郎「古寺巡礼」のような「幽かな燈明に照らされた暗い厨子の中をおずおずとのぞき込むと、香の煙で黒くすすけた像の中から---」という臨場感が感じられなくて残念。やはり、創作当時のそのままよりは、唇には朱がわずかに残り、体の色も殆ど脱落し、香煙黒くすすけているほうが歴史を経た十一面観音らしい。
続日本紀によると、藤原不比等の娘光明子は、聖武天皇がまだ首皇子の頃、16歳で宮中に入った(霊亀2年 716年)。そして、養老8年(724年)、聖武天皇が即位、時に年24歳である。そして神亀4年(727年)、光明子夫人は皇子を生んだが、その皇太子は満1歳前に死んでしまう。その翌年、神亀6年(729年)2月、長屋王の変。改元されて天平元年8月(729年)、光明子は人臣として初めて皇后となった。
しかし、天平9年(737年)の春、瘡のある疫病が大流行し、はじめ筑紫から伝染してきて、夏を経て秋にまで及んだ。この時に、光明皇后の兄弟、房前、武智麻呂、麻呂と宇合の4兄弟が次々と亡くなっている。続いて、天平12年(740年)、藤原広嗣の乱。
光明皇后が崩じたのは天平宝宇4年(759年)6月で、歳は60才であったとある。また、国分寺、国分尼寺の詔が出たのは、天平13年(741年)年3月だから、この時は光明皇后は、既に42才位である。東大寺大仏の開眼供養が行われたのは天平勝宝4年(751年)4月で、光明皇后、52才位である。もし、光明皇后がモデルになったとしても、国分尼寺の詔から東大寺大仏の開眼供養の頃た゜から、モデルは既に40才から50才にかけての中年女性である。
天平の美人は豊満な肥満体が好まれたそうだし、これぐらいの歳ならば、この体型も有り得ただろう。まさに中年女性を連想させ、まさしく天平時代の人間的、写実的な特徴を表現している。
ただ、頭の髪は群青色で、黒髪でないし、頭上面も異国の雰囲気がするが、多分、インドから渡来した彫刻家が故郷を偲んで、彫刻したものであろう。それこそ、天平時代の国際性を彷彿させるものだ。 ちなみに東大寺の開眼供養の時の開眼師は、天平19年(747年)南天竺から渡来した婆羅門僧 菩提であったと言う。
和辻哲郎「古寺巡礼」では、法華寺の観音に光明皇后の面影を認めていない。何故ならば「この十一面観音の面相はそういう期待に応ずるものではない」からである。貞観時代の作とする近来の設に同ずると述べながらも、天平とのある関係をもっているとし、結局「現在の十一面観音は光明皇后をモデルとした原作を頭において、後代の人が新しく造ったものだという想像説が成り立つ」としている。奇妙な折衷案だ。
普通、観音像というと若い乙女を連想させるものが多いが、この像の場合、何故このような中年女性の体型にしたのかを考えると、どうしても光明皇后モデル伝説が気になる。もっとも光明皇后像には、もっと慈悲深さや気高さがあつても良いとは思うが、---。
もうひとつ平安初期の作とする説があるが、それは衣の「翻波式」模様である。いわゆる「反古典的」な新しい波とされるものだ。法華寺は国分尼寺の総本山であり、当時の最先端の仏工が彫刻したはず。ここに、翻波式の模様があるとしても、時代を先取りした先駆的なものと理解する。
風呂といっても、現在のサウナみたいな蒸し風呂らしい。光明皇后は「我自ら千人の垢を去らん」と千人の施浴をめざしたが、最後の一人はなんと癩病人だった。皇后は躊躇もせず、みずからの唇で癩患者全身の膿を吸ってあげたという、すごい伝説だ。続日本紀によると「皇太后は慈悲の心が深く、人々の苦しみを救うことを心がけていた。」「また、悲田・施薬の両院を設け、天下の飢えと病で苦しむ人々を治療し養った」とある。
国宝十一面観音六体のうち、2体は尼寺にある。それは道明寺と法華寺で、いずれも古から続く由緒ある尼寺である。天平の僧尼については和辻哲郎「古寺巡礼」にも詳しいが、天平の頃は僧尼数の少なくとも三分の一は尼だったという。「彼らは生きがいのある生活を求めたのであって、必ずしも出離を志したのではない」という言葉は心に残る。
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