新羅系天皇


      天皇即位 天皇の即位 儀式の違い 
      でも明らかだが
、「帝位」とするのは、神武、允恭、天武 である。
      殆どが「天皇位」とするのに、この3者が違う。 加耶古代史観では、この系統を「新羅系」とする。何故に新羅系なのか?

      もっとも、帝位のそれだけで、「新羅」勢力とするわけではない。 

        社会的背景
        日本書紀の記事掲載内容
     とかも参考にできる。

新羅勢力の出自


  新羅は半島東部、言わば、東の果て、防禦には都合が良いが、中国とか先進文化を許容するには遠すぎる。 一体、どこから来たのか? それに日本の天皇にも関係ありそうな雰囲気。 日本人のルーツと新羅のルーツで、どこか繋がるのか?

   神武
   允恭
   天武
の社会的背景をまず検討しよう。
    

神武


  神武は創作である。 としても、これは神武の物語は、倭国大和の先住民を駆逐して、大和へ進出する新羅勢力のものだ。 

時期としては天の日矛の移住くらいか? 
まず4世紀前半   新羅が倭国へ人質  
古事記と日本書紀では、天の日矛登場の時期が異なる。 
   古事記   応神
  日本書紀  崇仁
いずれにしても、新羅勢力が近畿地方へやってくる時期に当たる。 地域としては「但馬」である。

 神武の意味は、新羅勢力の大和への進出であるから、この天の日矛はそれより以前の話になる。
神武は、5世紀草創、4世紀後半からの応神ルートで、半島から、新羅、加羅、コムナリ加耶が倭へ移住して来る時期にあたり、 新羅勢力の倭の先住民を駆逐、大和への進出を図った記念碑である。 

新羅勢力のもう一つの拠点は 吉野である。 

允恭


 神武の具体的な例としては、この允恭なのでは? 日本書紀では、神武元年は紀元前660年と、はるかに古代に設定されている。 そもそも、こんな古代を建国記念日にする事自体、無節操であるが、さらに、新羅系の大和進出の時期を建国記念日とするのも、加耶勢力の日本としては論理的矛盾である。 ただ、あるのは、天皇万世一系の教条を守っているだけ。

  新羅勢力は、大和では西北部に拠点を構えた。 伝崇仁天皇陵のある大和西北部は新羅勢力下である。 有名な薬師寺、西大寺等は新羅勢力の建てたものだ。

引退した大伴勢力の謎?


  記述では、大伴勢力は新羅そのものである。大伴の大臣等の伸張を見ると、新羅勢力の動きがよく判る。  応神の頃、倭国へ移住して来るが、コムナリ加耶の「雄略」が支配すると、加羅系物部とともに、倭国の中枢へいく。 

  以降、雄略、平群等を打倒して、新羅と物部(加羅)は倭国を握る。 しかし、大伴は欽明以降、すなわち、朝鮮半島の金官国が新羅に併合されたあとは、何故か引退する。だが、一時の避難。

この時期の分析は? 

    倭国では先住加耶が打倒され、外来の新羅・加羅系が天下。 
    
   半島との交易に関しては
   半島では 新羅が金官国を併合して、新羅が獲得 
   筑紫では 新羅・加羅が筑紫君磐井を打倒して、加羅(物部)が獲る。 

このうち、洛東江流域は新羅が確保、北方への足がかりを掴み、新羅勢力は朝鮮半島の経営に専念する。


各勢力の伸張

仁徳 大臣 竹内宿禰
履中 平群つくの宿禰 蘇我満智宿禰 物部イコフ大連 円大使主
反正
允恭
安康
雄略 平群真鳥大臣 大伴室屋大連 物部目大連
清寧 大伴室屋大連 平群真鳥大臣
顕宗
仁賢
武烈 大伴金村大連
継体 大伴金村大連 許勢男人大臣 物部シカアラカイ大連
安閑 大伴金村大連 物部シカアラカイ大連
宣化 大伴金村大連 物部シカアラカイ大連 蘇我稲目宿禰大臣 安倍大麻呂大夫
欽明 大伴金村大連 物部尾興大連 蘇我稲目宿禰大臣
敏達 物部弓削守屋大連 蘇我馬子宿禰大臣
用明 蘇我馬子宿禰大臣 物部弓削守屋大連
崇峻 蘇我馬子宿禰大臣

加羅(物部)との共闘


神武東征でも判るが、新羅に協力したのは、加耶のうちでは、物部勢力である。 彼らは同じ加耶でありながら、新羅の先兵となって、倭の先住加耶と敵対した。例えば、加羅の前身、邪馬台国集団の移住路 四国、淡路島、紀ノ川流域。 

吉野は新羅勢力の拠点と言われる。 でも新羅が吉野を獲るのは、加羅勢力から奪ったとも考えられる。 新羅勢力が大和へ進出する以前には「加羅勢力」は、先住加耶と共闘して倭にいた。

大伴、物部ともにいずれも新羅先兵として生きたのに、結果、大伴は天武とともに、だが、物部は見事、殲滅されるのは何故か? 
  
    (1)大伴 新羅の先兵として生きる(  例、キム・ユーシン)
    (2)物部 加羅系 (新羅に組するが、最後は殲滅される。)

欽明までは、新羅・加羅共闘で、大伴・物部とも同じく共闘したが、半島の加羅が新羅に叛いて、殲滅されると、倭国では、大伴と物部は敵対関係に変わる?
いや、
 朝鮮半島   新羅 洛東江上流を取る。 
その代わり、倭国では、新羅は手を引いて、物部(加羅系移民)増強。


大伴勢力の再登場

 新羅勢力が半島に専念しだすと、倭国は、加羅系移民「物部」と、高句麗系移民「蘇我」との対決に移る。 この両者の戦いでは、新羅は静観、加羅系移民「物部」が壊れるのを横目で見る。
 高麗系「蘇我」が勝利し、倭国を統一したあと、大伴勢力はまた登場する。 叙明即位前期である。629年
      田村皇子  
      山背大兄 (聖徳太子の皇子)
との皇位争いである。 大伴鯨連は 田村皇子側 (叙明温祚オンジョ百済)側につく。 対高麗で、新羅・百済は連合する。



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