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鼻輪松
館西5町余り、小坂を上がり、その地に入る。雙松相並ぶ
鼻輪松は相並ぶ松とあるので、これこそ二木の松ではないだろうか?
封内風土記では、もうひとつの松、すなわち、「雙根古松あるいは武隈松」という表現
だが、この雙根の漢字の振り仮名は「フタキ」としている。
鼻端とも書く。(鼻端とは馬の鼻先をいう)
鼻輪松はどこにあったのか?推測してみよう。
岩沼物語の記述では、「法常寺へ行く道、左手、小高い丘」と書いているが、
封内風土記で書いてある「館の西、5町あまり」の説明ができない。もっとも、鼻輪松は「館の北」という
説もあり、館の北ならばそれはそれで。
「館の西 5町あまり」
以下の地図を参照すると(この場合の館とは岩沼城址として)
地図としては昭和39年当時のものを参考に歩く。
駅から西へ、距離も500m位歩いてみる。今や宅地造成とかで削られて往年の姿を思い浮かべにくい。
だが、周りを見渡すと、宅地とか道路とかで削られているものの、往年の「鼻輪崎」の面影をたどることができる
鼻端ともいう。鼻端、つまり馬の鼻先のような岬を形容したものでは? また鵜ヶ崎もいまださだかではないが、こうしてみると鵜ヶ崎は鵜の首のように突き出た岬であることがよくわかる。
俗にいう武隈の里(岩沼)七崎とは?
鷲崎、観音崎、土ヶ崎(堂ヶ崎)、鼻輪崎、鵜ヶ崎、松崎、稲荷崎
ちょうど、鼻輪崎と鵜ヶ崎は相対する感じで立地している。
昭和39年当時地図
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館の西、500mほどで鼻輪崎。小坂を上がりだから、鼻輪の突端からもう少し
西側の高台に当るのだろうか。現在では宅地造成、道路建設のため削られてしまった。
この鼻輪崎は今の朝日山公園と続く部分であったのだが。
鼻輪崎の先端付近
まだ農地で、往古の姿を残す。往古ではあの向こうに高台があったはずだが、
今や削られて失われている。
鼻輪松そのものは現在はないけれど、相並ぶ松を探せば、すぐ近くに見つかった。竹駒神社の門前にある二株松だ。 高林寺 門前の松もそうである。 なぜか門前には相並ぶ松が多いのだ。陸奥国府のお寺の門前に相並ぶ松があったのだろうか?
竹駒神社
高林寺
下増田 北釜 観音寺境内
二又の松、(左手)、三叉の松(右)
初代から4代目まではこの鼻輪崎にあった。 名取川の橋げたにされて以来、武隈松は断絶する。
復活するのは、この武隈の地ではなく、竹駒神社の近くの二木である。もっともこの「二木」の地名も
新しいので、二木松にちなんで名をつけたのだろう。

竹駒神社の北、現在の二木松
根元はひとつで幹から二又にわかれる。ただ残念なことに この松は大分枯れてきて
勢いがない。どこか海岸あたりからいい松を見つけて移植してはどうか?
次の8代目は用意はされているが、この枝振りでは間に合わないのではないか?
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平安の頃の武隈松と江戸時代の頃の武隈松は植えられている場所が違う。
平安の頃 初代から4代目までは鼻輪松で武隈館の前にあった。古書によると「館の前」に植えたとあるからだ。 4代目までは鼻輪崎の高台にあった武隈館の前の鼻輪松!!!
4代目は名取川の橋の材料にされてしまい、ここで断絶。
4代目と五代目の間は500年間くらい開く。 500年後、江戸時代、五代目が植えられたのは今の二木で、植えられた場所は竹駒神社の近い二木になった。二木の意味は「根は一つでも二つの木」に変わった。 雙根古松とかいて「フタキ」と詠ませるのは往古の姿を知っているからか?
この二木に移ってから、二木の松が新しい武隈松となり、かっての古い武隈松は「鼻輪松」と呼ばれるようになった。フタキという呼び名はかっての古い武隈松の「相並ぶ」二本の松を踏襲している。