武隈の里 
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武隈から竹駒へ

武隈から竹駒への変化はいろんな意味で重要だ。たんなる訓音が同じとかの問題
ではない。竹駒への転換は歌枕の「武隈」をも断絶させる。 都の支配が強くなるにしたがい、
武隈の名前は廃れていく。もともと「武隈」は土着的な名前なのだ。 前九年、後三年合戦を境に武隈は廃れる。
武隈は土着的な名前? 
武隈の名前は11世紀には廃れてしまい、馬市の開かれる「竹駒」に、、。

武隈から鵜ヶ崎へ


 時は平安時代の10世紀後半から11世紀にかけてに相当する。

三十六歌仙の一人 陸奥守藤原実方に随行 陸奥で没した。 父兼信は陸奥国安達郡に土着
清和天皇の皇子貞元親王の孫  長保二年(1000年) 遂に任地に卒す という。
武隈の地に住み着いたのは「清和源氏」の流れを汲む。

武隈の歌も多い。後捨遺和歌集
藤原実方は長徳元年(995)、陸奥守に任ぜられ、三年後の長徳四年、任地で没した
実方は光源氏のモデルの一人。 

  源重之は鵜ヶ崎城を鵜ヶ崎に築城したという。山麓から低地への最先端まで
進出したことになる。まだ前九年、後三年合戦の前で陸奥は平穏な時代であったろう。 

鵜ヶ崎城は国府ではなく、岩沼地方での拠点で 都から来てこの鵜ヶ崎に骨をうずめた源重之の歌はもの悲しい。 
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後捨遺和歌集 

   「武隈の松もひともと枯れにけり風に傾く声のさびしさ」

   武隈や 鼻端に立てる 松だにも 我がこと独り ありとかやきく  
                                        
   年を経て 誰を待つとか 武隈の 鼻端にのみは いでたてるらん 


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 武隈から竹駒への転換 合戦前夜



 能因法師(平安中期歌人 988-1058)  橘諸兄の後胤 俗名橘永ト(ながやす)
三十六歌仙の一人で、平安時代中期の著名な歌人

武隈から竹駒へ転換  永承年間(1046〜1053);
「能因法師」である。やってきたのは前九年役以前、まだ陸奥は平安なころ。 源重之が鵜ヶ崎城をひらいて間もないころだろう。 しかし、まだ合戦前だが、これを契機に「武隈」から「竹駒」への転換が進む。  
 
武隈松は名取川の橋げたにされて断絶、これも合戦の前哨戦。 

 この頃は前九年、後三年合戦と都側が制圧していく過程、 由緒ある「武隈」の名前も消えてしまう。奇妙なことに都からの制圧が進むと歴史ある「武隈」という地名は希薄になり、「竹駒」という地名に変わっていく。

能因は奥州に「馬の交易」にきたとの説もあり、当時、陸奥は「金と馬」の宝庫であり、都側はそれの収奪に乗り出そうとした時である。能因法師はその前哨としてやってきた。 


 「武隈の松はこのたび跡もなし千歳を経てやわれは来つらむ」

歌枕が多い陸奥の好き時代は前九年、後三年合戦で断絶する。合戦ではもう歌枕どころではなく、血なまぐさい戦争で陸奥は軍事力で制圧される。陸奥は都から見ると
未知の世界でばなくなり、陸奥は武力鎮圧で「金と馬」を収奪していくターゲットとなる。

        
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安倍氏  9世紀の後半頃から勢力を伸ばし、11世紀の初めには 勢力拡大、国司に反抗 (陸奥国府が大津波後 弱体かな?)

 永承6年(1051年) 陸奥守藤原登任(なりとう)は安倍頼良を討とうとするが大敗
          これを機会に前九年合戦   前九年 1051--1062年  
源頼義やその子義家は、清原武則の援軍を得て安倍頼時や子貞任、宗任らを征討し    
        
         1063年2月 安倍貞任(安倍頼良の子)
                、藤原経清(藤原清衡の父)、
                安倍重任(安倍貞任、宗任の弟)首 
  
永保3年(1083年)、源義家は陸奥守として再び陸奥へ
     当時清原真衡 全盛   真衡 攻撃を受けて   義家に援軍依頼

  家衡と清衡側は結果、勝利。だが戦後、うちわもめ争い
   、後三年合戦 ---1083−−1087年  
 義家は弟の新羅(しんら)三郎義光の助けを得、家衡を攻略
 清衡が勝利

   以降、100年間 藤原三代 清衡、基衡、秀衡
       参考リンク 奥州藤原三代   
秀衡は文治3年(1187年)10月29日没 

1189年 源頼朝の攻撃で平泉滅亡

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西行法師

 西行法師(1118〜1190)  俗名佐藤義清(さとうのりきよ)、
東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に。 時に藤原三代 終わりに近い。
以降、芭蕉がやってくる、まで500年間のブランク。

竹駒と武隈

 竹駒寺はその後、廃れて、復活するのは天文の頃 天文年間(1532〜1555
芭蕉が訪れたのは1689年 武隈松を竹駒神社の後ろに眺める
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