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県道が国道4号線に合流する少し手前、東北本線を超える越線橋の右側
千貫神社の赤い鳥居を背にして、左手、こんもりとしたこじんまりした丘がある。
往古は東平王松塚といわれて「青松12株」ありといわれたが、
現在では雑木林のみ。白い標識のところまで行くにも足元雑草生い茂り、おぼつかないのだ。
前方後円墳か?
1.立地条件
東平王塚古墳からは直接 蔵王は見えない。山すそにもう少し歩くと、前面に蔵王があらわす。だが、墳丘の上に上ればどうだろうか? 後日、登ってみよう。
道路まで引き換えし、向こう側まで道路を迂回して見ると、田んぼのカーブから、
古墳のくびれがよくわかる。かめ塚古墳よりは一回り大きそうだ。
南側は田んぼ。
2006/4/22 桜満開
低木が伐採されてすっきりした。
新しく松の小苗が2本、植栽された。
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まだ田植え間もない頃 5月
古墳のすぐそばは田んぼ
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2月中旬 千貫神社前の道路から古墳を見る
向かって右側が前方部、左側が後円部と思われる? 配置は南北で北側が後円部はかめ塚古墳と同じか?
2006/4/22
2.「東平王」はだれか?
724年、神亀元年、多賀城を創設した大野朝臣東人だという説があるが、彼が登場するのはもっと後代、壬申の乱で活躍した大野果安の子。大野朝臣東人は742年、天平14年亡くなる。
時期的に「前方後円墳」の時期とは合わない。
異邦人というのは?
加耶古代史観からみて
かって往古、古墳時代、この地方に来たのは卑弥呼に通じる鮮卑系新羅の人達だった
とすると、当地の人からみると異邦人かもしれない。
例のかめ塚古墳をい作った人達と同じ集団なんだ。お墓の形、大きさをみればもっとはっきりするだろう。
それにしても、古墳とかの保存については
もっと力を注いではとは思うが。 (2006年2月17日 20:19:24)
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古墳の向こうには 千貫神社-------------------------------------------------
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蔵王遠望 2006/2/14

2006/4/22 桜咲く頃 蔵王遠望

東平王松
名跡志 いわく
千貫待峰より東、山の下に古い塚あり。青松12株、
相伝
異邦人東平王が山の下で客死、郷里を偲び上に植える草木は西にたなびく。
宗久紀行もまた異邦人とする。
東平王は按察使の尊称なりや?
続日本記大野東人、神亀元年、東国節度使 、同3年、東海東山節度使兼鎮守府将軍。
国分式しだいいわく 東平王はこれなり、あるいは記いわく、大野東人。
恵美朝? 東平王と称す。橘諸兄が葛城王というように。
按察使 この地で亡くなり墓を作る。郷俗これを知らず異邦人という。
宗久また古書を知らず。郷俗の説を踏まえた。
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武隈の里
