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「奥の細道」によると元禄2年5月4日、芭蕉は「岩沼に宿る」とある。
諸説では曽良日記の記事等を参考にして
名取と岩沼が逆転
岩沼に泊まっていない .
箕輪笠島の「右に見える」は「左の間違い」
とか言われている。 果たしてどうなんだか?
岩沼に住んで、実際歩いてみて検証してみた結果、
芭蕉の書いたとおりであることが判った。

最大の鍵は「名取ー岩沼」と一見、掲載が実際の地理と逆なことだ。
これを誤りと見ず、このような歩き方もあることを探すことが解決につながる。
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芭蕉は南長谷の分岐から東街道を歩き、笠島へ行く途中で断念 引き返した。そして芭蕉は岩沼に泊まり、あくる日、武隈松を見てから奥羽州街道で仙台へ向かった。古代からの「東街道」がキーワードだ。
西行のあとをたずねた芭蕉にとって、道祖神社とかたみの薄は何としても
見たかったし、武隈松と両方見る方法は?
仮説ー1) 南長谷→笠島道祖神→岩沼武隈松
阿武隈川が山を割って入るところ、南長谷から東街道を北上して道祖神神社へいく。かたみの薄をみて岩沼へ引き返す。 岩沼に泊まり、あくる日岩沼の武隈松を見る。その後は奥州街道で仙台へ向かう。
仮説ー2) 芭蕉と曾良は別行動している。
曾良日記との矛盾を解消させるには芭蕉と曾良の別行動とみる。
曽良」日記によると
5月3日 飯坂から白石へ 白石泊り
5月4日 白石から岩沼経由(奥州街道) 仙台へ 仙台泊まり
奥の細道 芭蕉の行路
5月3日 飯坂から白石 白石泊まり
5月4日 白石から笠嶋へ(玉崎から分かれて東街道) 途中断念 岩沼へ引き返し 岩沼に泊まる
5月5日 武隈松をみて 岩沼から仙台へ(奥州街道) 仙台へ泊まる
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もう少し詳しく見てみると
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| ----資料------奥の細道------------------------------------- 鐙摺・白石の城を過、笠嶋の郡に入れば、藤中 将実方の塚はいづくのほどならんと人にとへば、 是より遥右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋と云、 道祖神の社・かた見の薄今にありと教ゆ。此比の 五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそな がら眺やりて過るに、蓑輪・笠嶋も五月雨の折に ふれたりと、 笠嶋はいづこさ月のぬかり道 |
白石から笠嶋への行程?
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奥の細道では
「鐙摺・白石の城を過、笠嶋の郡に入れば」
これの意味は? 白石からきて、南長谷の分岐点で岩沼の町に入らずに山麓沿いの東街道を歩いて笠嶋へ向かった。 これは往古の街道で、この街道先に道祖神社や実方中将のお墓がある。
玉前から千貫神社のある山麓へ、山麓沿いに北の名取川まで、北上一直線 東街道である。奥州街道が開発されるまでの古代の街道。現在でも岩沼から山麓沿いで茂庭とか仙台の南に出る最短の道である。県道39号線
時は元禄2年、5月4日は「雨少し止む」 折々日の光り見る南長谷からは山麓ぞいの道で歩きやすいはずだが、五月雨のため道大変悪く疲れ果ててしまった。 西行の跡を訪ねるも「笠島はいずこさ月のぬかり道」と断念した。
芭蕉はそこで岩沼に引き返し、その夜は岩沼に宿泊。
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曽良の記述と矛盾しないか?
芭蕉、曽良とも記述順序は正しく、芭蕉と曽良は岩沼宿に入る手前、分岐点南長谷で二人は 分かれて別行動をとった。
一方、玉前から奥州街道は岩沼の町へ入り、平坦な道、江戸時代以降 開発された。今の国道4号線にあたる。
曽良は奥州街道で岩沼を通り過ぎて、左手に笠島を見過ごしながら仙台まで歩き、4日は仙台で泊まる。あくる日、5日芭蕉と合流。 --------------------------------
google map 現在のルート
玉崎から北上する県道39号線が往古の東街道である。
東街道の南端 小野篁 竹駒神社発祥の地 八聲橋跡 google map
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芭蕉は東街道でどこまで歩いて引き返したのか?
志賀沢川 google map
志賀沢川を渡る手前、「下河原」付近 旧街道沿いの石碑
志賀、すなわち、志賀沢川を渡ることができなかったのだ。
この写真は山麓沿いの東街道が志賀沢川をわたる手前
左手に川を渡る橋が見える。左手に志賀沢川、川は右の方に周りながら流れていく。ここはまだ志賀沢川を渡っていない地点からはるか北方を見ている。右手奥に連なる丘陵が愛島丘陵である。
東街道はほとんど山麓沿いで歩きやすい。 だが、川を渡るところが何箇所かある。その中でも一番、困難なのは志賀沢川の渡渉であろう。 この川を渡ると、道祖神社も近く、実方の墓まですぐだ。
志賀沢川は「岩沼」から「村田」へ抜ける志賀街道にある。前進を阻まれたとしたら、この川あたりであろう。文章的にも地理がよく合致する。
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「是より遥右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋と云、道祖神の社・かた見の薄」
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岩沼に宿る。
武隈の松にこそ、め覚る心地はすれ。根は土際
より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。
先能因法師思ひ出。往昔むつのかみにて下りし人、
此木を伐て、名取川の橋杭にせられたる事などあ
ればにや、「松は此たび跡もなし」とは詠たり。
代々、あるは伐、あるひは植継などせしと聞に、
今将、千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。
「武隈の松みせ申せ遅桜」と挙白と云ものゝ
餞別したりければ、
桜より松は二木を三月越し
江戸時代の岩沼 絵図
中央に奥州街道が南北に伸びる
芭蕉は志賀あたりから引き返した。武隈二木松をみてから仙台まで歩こうとはしただろうが疲れていて 芭蕉が書いているとおおり岩沼に泊まった。
あくる日、5日、二木松を見てから、仙台へ向かった。そこで有名な二木の松、「桜より松は二木を三月越し」の俳句を読んでいる。
ちなみに
曾良は岩沼を通り過ぎただけで岩沼には泊まっていない。4日には仙台へ着いている。
芭蕉と曾良の仙台で泊まった日数が違うのだ。
同行した曽良日記による 外部リンク 曾良日記
5月3日 飯坂から白石へ宿
5月4日 白石を立ったあと、「岩沼入口の左の方に竹駒明神という神社有リ
この書き方は奥州街道の道順、南から岩沼宿に入ったことを示す。
「笠島(名取郡の内)、岩沼と増田の間、左の方一里ばかりに有り。箕輪と笠島の村、
並んで有るというが、行き過ぎて見ず」、
この記述は奥州街道から、岩沼と増田の間で左手、4kmあたりが箕輪、笠島
といううから地理的には正しい。 この表現では岩沼から仙台へ北上、途中から
左の箕輪笠島へ行こうしている。
大体の説はこのルートで解釈しているが、名取と岩沼の順番の謎は解けていない。
もしそうならば、掲載の順番は「岩沼ー笠島」にならないといけない。この矛盾は
曾良と芭蕉は別行動をとったことで解決する。
またその証拠としては
芭蕉はこう書いている。「名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて
四五日逗留す。」注目は「四五日」?実際はどうか?曽良日記では 4日に仙台着で、
8日朝に出発 だから 5日間ほど仙台に。一方、芭蕉は5日から8日までなので4日間ほどになるのだ。
名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿 をもとめて四五日逗留す。爰に画工加右衛門と云 ものあり。聊心ある者と聞て知る人になる。この 者、年比さだかならぬ名どころを考置侍ればとて、 一日案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の景色思 ひやらるゝ。玉田・よこ野・つゝじが岡はあせび 咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、爰を木の 下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、「みさ ぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂・天神の御 社など拝て、其日はくれぬ。猶、松嶋・塩がまの 所々、画に書て送る。且、紺の染緒つけたる草鞋 二足餞す。さればこそ風流のしれもの、爰に至り て其実を顕す。 あやめ草足に結ん草鞋の緒 かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の 山際に十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国 守に献ずと云り。 |
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武隈の里