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-----武隈松の変遷
794年 平安遷都
802年 征夷大将軍坂上田村麻呂 東征
842年 小野篁 武隈に稲荷明神
869年 貞観の大津波
時期は9世紀末から10世紀にかけて? 貞観大津波以降。
承平・天慶の乱 の以前 陸奥守の時、初めて植え、さらにまた再任時にまた植えるとある。
まだ源氏は関東までの勢力であり、陸奥はやはり藤原なのか? → 藤原こそ陸奥の土着か?
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後選和歌集巻17雑三 1241番
「陸奥守にまかりくだれりけるに、武隈の松の枯れて侍りけるを見て、小松を植え継がせて侍りて
、任果てて後、また同じ国にまかりなりて、かの前の任に植えし松を見侍りて
うえしとき契りやしけん武隈の松をふたたびあひ見つるかな」
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承平・天慶の乱 一般的には藤原経清は平将門乱を平定した関東武士 藤原秀郷の子孫、有力な見方 宮内卿藤原元善 。 |
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(1) 時期は?10世紀半ばか?
源満仲が植える。 913〜997 --
承平・天慶の乱以降として、10世紀半ば以降 源氏は武隈へ進出!!!!
源満仲は清和源氏の二代目
彼の長男 頼光は摂津源氏の祖
次男 頼親 大和源氏の祖
三男の源頼信(968-1048)は河内源氏の祖 --甲斐守在任時に平忠常の乱を平定 関東に地盤を広げる
-頼朝の時代に鎌倉幕府を開く
この頃はまだ歌枕の時代だが、「清和源氏」の嫡流が陸奥にもやってきていることw見れば
源氏は古くから陸奥の広大な土地を狙っていた。
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(この満仲のあと、995(長徳元年)年には藤原実方、陸奥守に任じられ、998年(長徳4年)
当地で不慮の死を遂げる。四十歳前後。光源氏のモデルの一人
歌人でありながら、藤原実方は武隈松を詠んでいないのだ。陸奥守在任期間が短いせいか?
。実方と同行した源重之の歌は数ある。
藤原実方 百人一首
かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを
源 重之 清和天皇のひ孫。。安時代中期の歌人。
百人一首
風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけてものを 思うころかな
「長徳元年(995)以後、陸奥守藤原実方に随行して陸奥に下り、同地で没した。
没年は長保二年(1000)頃、六十余歳かという」とか? 父は源兼信、 重之の父は陸奥に土着
していたとか。この土着地が「武隈」ではないか?
彼は歌人でもあり、父の土着地へ来たのであろうし、陸奥守でもない。
彼が築城したとかの「鵜ヶ崎城」は陸奥国府ではない。従い、陸奥国府と鵜ヶ崎城は別な場所に
あったと考えられる。
源重之 後捨遺和歌集
「武隈の松もひともと枯れにけり風に傾く声のさびしさ」
武隈や 鼻端に立てる 松だにも 我がこと独り ありとかやきく
年を経て 誰を待つとか 武隈の 鼻端にのみは いでたてるらん
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(4代松) 橘道貞が植える。 11世紀初めごろ
和泉式部の初めての夫 --
道貞は陸奥守の任期を済ませて都へ戻り、1016年に亡くなる。
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その後、陸奥守、孝義?が伐採、名取川の橋とするとある。
これで武隈松は断絶してしまう。 時期は大体は11世紀半ばか?
(封土記には「孝義」性が書いていないので誰か? 藤原?源?
源 頼信??
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能因法師(平安中期歌人 988-1058) 竹駒寺創建
能因が一度目の陸奥では武隈松をみたようだが、2度目の時は武隈松は見られず。
陸奥に再び来たとき
陸奥国にふたたび下りてのちのたび、武隈の松も侍らざりければよみ侍る
「武隈の松はこのたびあともなし千歳をへてやわれは来つらん」
後拾遺和歌集巻18 雑4 1042番
陸奥に歌枕の地を訪ねる。 何年ごろか明らかでないけれど、」類推できるのは
前九年合戦の前、12世紀半以前、武隈松が伐採される時期の前後か?
1140年とすると、能因は50歳を超えたところで、。
竹駒寺開基は永承年間(1046〜1053);だから、ちょうどこのあたりだろう。この時期では
武隈松っも伐採されたあとだね。
前九年合戦中というのは考えにくいし、合戦の前の軍馬の調達としたら1050年くらい?
もう一度来てるとしたら、もっと若い時代だね。出家は1013年だから、それ以降。
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橘 季通 (すえみち)
父の則光朝臣のお供で陸奥国の行った際に見た、この二木の松について次のように歌っている。
(時期はさだかではないが、前九年合戦以前)
「武隈の松はふた木を都人いかがと問はばみきとこたへむ」 後拾遺和歌集 1086年
武隈の松は二木をみきと云うはよく読めるにはあらぬなりけり 僧正深覚981年 清少納言が橘則光(たちばなののりみつ)と結婚
橘 季通 (すえみち)は則光と清少納言の子供
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陸奥はもう歌枕の地とかの優雅なもでなく、軍事力で圧殺される陸奥に
変貌する。
陸奥守は歌人から軍人に変身するのだ。
前九年 1051--1062年
勝利者側
源頼義朝臣----貞任、宗任を攻める間、陸奥に12年間 生没年:988-1075
源太郎義家
源次郎義綱
清原武則
敗者
1063年2月 安倍貞任(安倍頼良(頼時)の子)
、藤原経清(藤原清衡の父)、
安倍重任(安倍貞任、宗任の弟) の首 京へ
、-------------------------------------------------------------
1067年 源頼俊 陸奥守
1076年 橘為仲 陸奥守に任じられる
1083年 橘為仲 帰京 -----合戦の合間に陸奥守になったようだ。少しは歌ごころあり。
橘為仲家集 「為仲集」
武隈にて国の人いできたりていわく、「いにしえは松侍りけり。うせて久しうなりたれど、国の司いらせ給う時、かならず松の枝もとめて。かくたて侍るなり。さきざきのものの心しらせ給える人は、ここにて歌をなんよませ給う」といえば
たけくまにあとを尋ねて引きううる松や千とせのはじめなるらん
このあと陸奥守は源義家、義家の在任中 1083--1087年 後三年合戦
以降は陸奥は歌枕の土地では軍刀が支配する軍記の土地に。
武隈にあった陸奥国府も断絶、
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西行 (1118〜1190)
能因の跡を偲んで陸奥へ 時は1186年 合戦終結後、100年後
一回目 陸奥 1144-50年頃 26才から30歳ごろ
二回目 陸奥 1186年頃 69歳 東大寺再建のための勧進
西行は武隈へ行くが、武隈松は見られず。
西行法師 山家集
たけくまの松は昔になりたりけれども、跡をだにとて見にまかりてよめる
「枯れにける松なき宿のたけくまはみきと云ひてもかひなからまし」
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(5代松)
西行の時代からさらに500年間のブランクのあと、芭蕉がやってきたのは元禄2年5月(1689年)、
武隈松は「鼻輪崎」から竹駒大明神の近く、別当寺武駒寺の後ろ、「二木」の方に移る。
芭蕉が詠んだのは五代目とされる。
また五代目は誰が植えたかは不明、 断絶してから500年以上も間隔があいている。
「橘季通」と「能因法師」の歌をふまえて詠むが、芭蕉の見ているところは、往古、歌枕で歌われた武隈松が植えられていたところではない。
-------- 元禄2年 1689年岩沼に宿る。武隈の松にこそ、め覚る心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先能因法師思ひ出。往昔むつのかみにて下りし人、此木を伐て、名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、「松は此たび跡もなし」とは詠たり。代々、あるは伐、あるひは植継などせしと聞に、今将、千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。
「武隈の松みせ申せ遅桜」と挙白と云ものゝ餞別したりければ、
「桜より松は二木を三月越し」
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(6代松)
六代目は天明(1780)、仙台藩主伊達重村公が植え継がせる。
1862年(文久二年)に烈風で倒伏
(7代松) 現在の武隈松!!!
七代目の武隈松は、呉服屋作間屋万吉が植え継いだ。玉浦村二ノ倉浜から取り寄せた
ようだ。それから130年ばかり、、、。。
今や武隈松は瀕死の重傷だ。
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武隈の里