武隈の里 
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貞観大津波 多賀城は? 


 869年貞観の大津波で多賀国府は壊滅的な被害を受ける。それまでの
仙台郡山も名取川と広瀬川の合流地点で浸水しやすい地点だし、
郡山もかなりの被害を受けたろう。 多賀城は10世紀半ば廃絶され、その後の
陸奥国府は不明とされる。 時期的には藤原元善が始めて館の前に武隈松を植えたころと一致する?
  
武隈の松が歌に読まれるのは、この貞観の後になるのだ。もし、現在の二木松につづく丸山に陸奥国府が
あったならば、この貞観津波で破壊されてしまったろうに。この貞観津波以降に、武隈松が読まれだすことを
説明できない。 多賀城廃絶のあとが武隈では?

 (まなびの杜から) -
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-陸奥国府を襲った貞観年津波は仙台平野を水浸しにする被害をもたらした
ようです。3代実録(日本紀略、類聚国史171)の貞観11年5月26日(西暦869年7月13日)の記録
 これは最近の発掘調査でも裏付けられています。 例、「多賀城市埋蔵文化財調査センターにより、市川橋遺跡から9世紀後葉の大規模な津波災害 の跡が発掘された」とか。また東北大学大学院理学研究科箕浦教授による最近の科学的な解析の結果、貞観津波の数値的復元に成功したとの報告もあります。

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 藤原実方 不慮の死  帰り道? 
 


外部リンク源平盛衰記 参照

「 「長徳4年(998年」

出羽国の阿古耶(あこや)の松を訪ねての帰り道、名取郡の笠島道祖神の前を騎馬で通過しようとして落馬し、その傷がもとで亡くなった」とか?
 どんな道でいったのか? 阿古耶松は山形市内にある千歳山阿古耶の松か? 
仙台方面からは286号、ここから復路、笠嶋を通る道順は? 
茂庭から南下して笠嶋の方に向かうのは多賀城に帰るには
方向が逆では? 向かう先は岩沼 やはり武隈では?
 多賀城に帰るなら茂庭からそのまま仙台方面に向かうはずだ。
  
みちのくの阿古耶の松を訪ねわび、身は朽ち人になるぞかなしき  
のちに実方の塚を訪れた西行の歌。

 ○朽ちもせぬその名ばかりを留め置きて、枯野のすすき形見にぞ見る 西行
 
  

---------------資料ー1-----------------------------------------------------

貞観年津波 869年


8世紀前半頃(多賀城碑によれば神亀元年=724年)に創建 
坂上田村麻呂が蝦夷を討伐した延暦20年(801年)?

多賀城の前は名取川と広瀬川の合流地点、「仙台市郡山」と言う説が本格化している。
ただ、郡山は大化の改新からは50年ばかりで、短期間で多賀城に移っている。
 その理由として、この郡山あたりは名取川と広瀬川の合流地点で
洪水氾濫とか自然災害が多いところで立地条件に難があったのでは?

 注目すべきは、「陸奥国府を襲った貞観年津波869年」
 「次いで押し寄せた津波は平野の奥深くまで侵入して陸奥国府の城下まで達し」
とある。最近の科学的解析によると
「仙台平野の海岸で最大で9mに達する到達波が、7・8分間隔で繰り返し襲来したと推定」される。
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 外部リンク
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まなびの杜 No.16を見ると(津波災害は繰り返す 
             東北大学大学院理学研究科教授 箕浦 幸治教授)
 陸奥国府を襲った貞観年津波

宮城考古学情報でも  陸奥国大地震の被災跡―9世紀に津波が大路破壊―
  津波被害の被災跡が発掘調査でわかったとあります。

日本三大実録
では以下のように。原文のまま。

廿六日癸未。陸奧國地大震動。流光如晝隱映。頃之。人民呼。伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。城倉庫。門櫓墻壁。落顛覆。不知其數。海口哮吼。聲似雷霆。驚涛涌潮。泝漲長。忽至城下。去海數十百里。々不弁其涯。原野道路。惣爲滄溟。乘船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。
日本書紀 697年まで。720年完成。
続日本紀 697年から791年まで。797年完成。
日本後紀? 792年から833年まで。840年完成。
続日本後紀 833年から850年まで。869年完成。
日本文徳天皇実録 文徳実録。850年から858年まで。879年完成。
日本三代実録858年から887年まで。901年完成。

------------資料ー2---------------------------------------------------

藤原清輔 奥義抄

 うえしときちぎりやしけむたけくまの松をふたたびあひみつるかな

武隈の松はいづれのよよりありけるものとは知らぬ人は、うえしときとよまれたればおぼつかなくもや思うとて書きいでて侍るなり。この松はり昔よりあるにはあらず。宮内卿藤原元善といいける人の任に、たちの前にはじめてうえたる松なり。みちのくにの館はたけくまというところにあり。この人ふたたびかの国になりて後のたびよめる歌なり。たけくまのはなわの松ともよめり。重之歌にいう。

たけくまのはなはにたてる松だにもわがごとひとりありとやはきく 

たけくまのはなはとて山のさしいでたる所のあるなりとぞ近くみたる人は申しし。この松、野火やけければ、源満仲が任にまた植う。その後うせたるを橘道貞が任に植う。その後、孝義きりて橋につくり、後たえにけり。うたてかりかける人なり。なくてもよむべし。

----------資料ー3--------------------------------------------------

大化前代に陸奥には亘理、伊具以南の宮城県南部、福島県に10の國造が
置かれていたという。(先代旧旧事本紀)
この解釈では阿武隈川以南は既に国造がおり、蝦夷の領域は阿武隈川以北で、
最初に蝦夷と対峙するのは岩沼あたり。

陸奥国が建国されたのは大化改新まもない650年頃といわれている。
陸奥国とは「みちのおく」であり、このみちとは「東山道」のことである。
おくとはその道の最前線をいう。また7世紀後半からの陸奥国は宮城南部と福島のみならず
山形の最上、置賜をも管轄していた。

だから陸奥国府の条件としては
  (東山道)東街道沿いにある。
  山形への行きやすい地理 
 
山形への交通路を見ると、東山道は「柴田」から分かれて川崎、笹屋峠を越えて
最上へでた。東山道は柴田から玉前へ、そして千貫山山麓沿いに北上する。
最前線は常に変動するものと思う。

陸奥国府にからんで
   仙台 名取川と広瀬川の合流地点 郡山遺跡
   宮城県北部大崎平野 江合川の南岸 名生館遺跡) 
が注目されている。
大化の改新頃から 724年 多賀城創建されるまでの間である。

 

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