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このホームページでの解析では
鵜崎城趾、
武隈館
岩沼城
は、千貫山から朝日山公園、鵜ヶ崎までの舌状の丘陵地帯に含まれるが、
各々は別な場所。
鵜崎城趾、-- 鵜ヶ崎 今の栄町
武隈館 -----鼻輪、朝日山公園 --土ケ崎から朝日
岩沼城 -----現 岩沼駅
この地図は岩沼館主 田村右京大夫の時代 寛文元年(1661) −天和2年(1682年)あたりに作成されたもの。上は西方 奥州街道は町の真ん中を南北に伸びる。竹駒寺は左上。
仙台藩の頃、
「城」とされたのは仙台城と白石城である。1国1城のもとでも、白石城も正式な城として
認められた。さらに「要害」として48館 、
南部では 金山、角田、船岡、小堤、岩沼、平沢、川崎
北部では 上口内、人首、金ヶ崎、岩谷堂、水沢、
中部 岩出山、宮沢、高清水、佐沼、湧谷、不動堂
これら要害といっても、ちょっとした城と呼べるもので
角田要害2万2千石
小堤(亘理)2万4千石
と大名なみであった。ちなみに白石城は1万8千石。 岩沼要害の石高は七千石。
「封内風土記巻之五 郡邑」 によると
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古跡ひとつ、
鵜崎城と号する、または武隈館と称する
往古、源重之朝臣が築いた。天正以前は誰が住んでいたか不明。天正のはじめ(16世紀末)より
泉田安芸重光
石田将監
大木不休
遠藤兵部
屋代勘解由
斉藤新蔵人
阿久津新右衛門
奥山出羽
奥山隼人
奥山大學
伊藤兵部少輔
古内主然
古内肥後
田村右京太夫
古内造酒助
霊元帝、貞享4年以来、古内民部子孫相継ぐ。
古書などの絵図を読むと、岩沼城の本館や二の館は今の「岩沼駅」あたりだと判る。 西口あたりから岩沼駅構内や岩沼駅舎を含むあたりである。 岩沼城は沼や堀に囲まれており、館下や栄町は侍屋敷が並んでいる。
大事なことだが、「鵜ヶ崎城址」の案内場所の鵜ヶ崎公園と呼ばれる高台は、これらの絵図と比較する限り
岩沼城跡ではないと思う。 確かに、岩沼城は沼や堀に囲まれているけれど、地形的には朝日山公園、鵜ヶ崎から岩沼駅あたりまで続く丘陵の最先端にはあるが、、。この絵図によると「鵜ヶ崎城址」とされているところは侍屋敷が並んでいる。今の栄町。

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名取郡岩沼要害屋敷 ならびに館下絵図
記録によると
城の大きさは(本館と二館の島かな)
南北150間(270m)
東西66間(119m)
周囲は沼や堀で囲まれて、一番山側の島に「本館」と「二の館」がある。この本館や二の館のある
所は、本来、鵜ヶ崎からの連続した丘陵の先端にあたる。 明治初期の陸軍地図参照。
本館や二の館を囲むのは丸沼、この島の南側から東、北側には侍屋敷がならぶ。さらに本館あとの北西
鵜ヶ崎の方にも侍屋敷が続く。 本館の南側にも竹駒寺あのあたりまで
侍屋敷が並んでいる。面積でみれば侍屋敷はかなりの場所を占めている。
本館の西側は丸沼が広がって。丸沼につづいて北方に沼が通じるが、これが長沼である。この長沼は梶橋のほうまで
続いている。すなわち、かめ塚古墳あたりまで。 町屋は奥州街道沿いに並ぶ。
また長沼は二ノ倉堀から海岸まで続く。
明治 陸軍測量
明治になって岩沼館を取り囲んでいた丸沼、長沼は埋め立てられ、開墾されて田んぼになったという。
もっとも当時は「岩沼要害」と呼ばれていたけれど、 ここでは「岩沼館」と呼ぶことにする。
館にあったいろんなものは北長谷の大日堂へ移されたとか?
ついで 東北本線の建設時、 東北本線は岩沼館本館跡を横切るように造られ、そこに岩沼駅ができた。
現在の岩沼駅あるところ、そこが「岩沼館」の本館跡。現在の地図に往古の岩沼館を推測して当てはめるとよくわかる。
-----以下 鵜ヶ崎城の現代的研究から引用-----------------
明治20年12月15日 東北鉄道開通
当時はまわりは桑畑と水田ばかり、黒い煙を吐く汽車は桑畑rとかに悪いのでと敬遠された。結果?
古内広行氏の屋敷の真ん中をを横切るように鉄道、岩沼駅が建設された。
本丸がある東側の下に 現在の1番線が建設された。
明治30年11月 常磐線開通 2番線とホーム、跨線橋が建設
本丸跡は「お城山」と呼ばれた高さ20mほどの高台で、桜の木も植えられた。
大正8年 3番線が増築 この結果 お城山は半分ほど削られた。
大正12年9月 岩沼、仙台間が複線化 お城山の大半は崩された削られる。
昭和40年7月 4,5,6,7,8,9番線 プラットホーム新設
お城山は完全に削られる。
それでもお城山は2,3mの高さで一部 残される。
平成元年 岩沼駅 西口再開発 お城山はさらに削られて市道の高さに合わされる。
線路から1mぐらいの高さ
現在では岩沼駅西口ロータリーの南側にかすかなかっての丘陵の名残を
みることができる。
----------------以下 参考 資料------------------
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陸前国名取郡地誌 下 宮城県 より
古跡
鵜崎城趾、あるいは武隈館、あるいは岩沼城と称す。岩沼郷の中央にあり、東西1町24間3尺
南北10町40間、石壁、なお残っている。 伝にいわく、古昔、源重之朝臣が築く。源満仲、藤原元良等
この館にいた。それ以降、天正の時代まで誰がいたかは定かではない。天正の初めより伊達氏の臣、
泉田安藝重光がおり、その後、石田将藍、大木不休、遠藤兵部、屋代勘解 、齋藤真蔵、安久津新右エ門、
奥山出羽、同隼人、同大学、伊達兵部少輔、古内肥後、田村左京太夫、古内造酒助等。
貞享4年甲子以来、古内民部子孫相継ぐ。明治元年戊辰12月伊達慶邦の時代、故あって召し上げられる。
同8年7月から古内廣直の町有地となり、ことごとく開墾して田んぼとなる。