平安中期-10世紀頃 檀像風彫刻の代表作 木造 像高 98cm
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1.道明寺 周辺
道明寺へ行く前に、石川の堤に立って、全体像をつかもう。
山の方を見るに、遠く生駒山、信貴山へと山並みが続き、大和川合流地点は1km先、、続く山並みは雲で隠れて見えないが、二上山、葛城、金剛と繋がる。平野の方は建物の隙間に誉田山古墳、道明寺駅向こうには市野山古墳等が見える。仲津山古墳も近い。これら古墳群は4世紀後半から6世紀にかけて、あいついで作られたと言う。
大和川は現在は西へ流れ、大阪市と堺市の境となって大阪湾へ注いでいる。だが、古代の大和川はこの付近から、北西のほうへ流れ幾多の小河川と一緒になりながら、淀川の入り江へ流れていたという。つまり、難波津についた人たちは川を溯れば、まず道明寺、古市に達する。また、陸上でいえば、
堺からの丹比道(竹内街道)は、すぐ南の古市を通り、飛鳥に達していた。いわばここらはシルクロードの最終地点だ。
駅前から道明寺の方へ歩く。市場通りで、威勢の良い掛け声が錯綜している。
すぐ、右側に石段が見えるが、これは道明寺天満宮である。十一面観音像は、もう少し先の右手にある尼寺の道明寺に安置されてある。
明治5年の廃仏毀釈により道明寺天満宮は神域となり、今の道明寺は分離されて西に移転した。
道明寺は、古墳造営等の土木技術に優れた「土師氏」の氏寺として創建された尼寺である。聖徳太子の発願により、土師氏の土地を寄進して建設されたといわれる。
古代は「土師寺」と称し、四天王寺式の大伽藍だったそうな。今でも五重塔の塔心礎石が道明寺天満宮の階段を降りた南方、古代道明寺跡にある。土師氏に出自をもつ菅原道真の時代になって、道真の別名、道明をとって道明寺と呼ばれるようになった。
出土瓦からも白鳳時代に創建時期が辿れるらしい。
今の本堂は明治5年の廃仏毀釈で移転後、大正に入ってから建造された。もうお彼岸もすぎ、境内の萩に白い花がちらほら咲き出している。
寺伝によると菅原道真公の作だとあるが、真偽はどうかと思う。菅原道真は901年正月、突如として、太宰権師に左遷された。地方勤務は2度目で、以前、886年正月から4年間、讃岐守として赴任している。今回は右大臣兼右大将の地位から見れば、流罪同様である。その2年後、903年2月、望郷の思いを抱いたまま没した。59歳。
本堂はわりかし狭いが、奥の方には阿弥陀如来像、十一面観音座像、聖徳太子像とか宝物が所狭しと並べられている。
重文---十一面観音---木造--50.1cm 藤原時代
重文---聖徳太子立像--木造--106.3cm 鎌倉時代
また、復元された修羅、いわゆる「木橇」が道明寺天満宮境内に展示されている。三塚古墳周濠内で発見されたが、制作年代や何の道具かは諸説あり、いずれにしても古墳時代から飛鳥時代のものであろう。この写真は木橇で大きな岩を運んでいる想像図で、木橇の下には「ころ」がひかれてある。大小二つある。
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